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『マチネの終わりに』第六章(25)

 是永は、蒔野の名前が出たこと自体は、別段、唐突とも感じなかった風だった。が、「うーん、……」と、溜息交じりに声を発すると、
「わたし実は、担当から外れちゃったのよ。」
 と言った。
「そうなの? どうして?」
 是永は、蒔野と《この素晴らしき世界~Beautiful American Songs》の件で意見が対立し、会社の判断もあって担当を変わることになった経緯を説明し、自分としては、とても力を入れていた仕事で、蒔野にも最大限気を遣っていたはずなので、とてもショックだった、この業界で自分の出来ることは、もうあまりないのかもしれないと思うようになった一つのきっかけだった、と言った。
 洋子は、是永に同情しつつも、蒔野のその話はまったく知らなかったので、
「彼は、仕事相手として難しい人?」
 と、自分たちの関係を言い出しそびれたまま、語を継いでしまった。
「ううん。アーティストの中ではやりやすい方よ。常識的だし、洋子が会った時みたいに、普段は気さくだし、繊細な心遣いもあるしね。蒔野さんと衝突したことなんて、一度もなかったから、余計にショックだった。」
「どうしてなのかしら?」
「そうね、……こんなこと、言っていいのかどうかわからないけど、蒔野さん、多分ちょっとスランプなのよね、今。音楽家として苦しんでるみたい。人には言わないけど、最近、噂になってる。」
「……。」
「六月にパリでリサイタルをやった時に、演奏がストップしてしまったらしいのよね。会場で聴いてた知り合いがいて、その時は、手を心配してたらしくて。……半信半疑だったんだけど、つい一昨日の東京の音楽イヴェントでも、蒔野さん、二十分の持ち時間で、やっぱり一度、演奏が止まってしまったのよ。それは、わたしも聴いてて、手っていうより、楽譜が飛んじゃったみたい。そういうことって、音楽家は時々あるけど、蒔野さんでもそんなことあるんだって、ビックリしちゃった。」
「そう、……」
「どっちも最近の話だけど、本人はもっと前からイライラしてるんじゃないかしら。――洋子は連絡は取ってないの?」


第六章・消失点/25=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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