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『マチネの終わりに』第七章(11)

 ザハ・ハディッドが月をイメージしてデザインしたという流線型のシルバーのソファに腰を下ろした。そんな突拍子もない代物を誰も気にしないほどに、ハドソン・リバーを望むこの二十九階の贅を尽くしたペントハウスは広く、DJの音楽はやかましく、壁にはクリストファー・ウールの巨大なシミのような抽象画が目立っていて、何よりも数多の“金持ち”たちで賑わっていた。

 洋子は、薄暗い部屋に灯る照明の光を頼って、腕時計を確認した。まだ十時を回ったところだった。

 先ほどから三十分しか経っておらず、彼女は、ヘッジファンドのマネージャーだというこの部屋の四十代半ばのオーナーが、二〇〇万ドルもする高級車のブガッティ・ヴェイロンをどのようにして購入したのかという自慢話から、ようやく脱出したところだった。

 ブガッティを購入するためには、所有に相応しい人物であるかどうかの審査があるらしく、それにパスをすると、飛行機のファーストクラスのチケットが送られてきて、本社(サン・ジャン)のあるアルザスのChateau Saint Jeanに招待され、そこで車の細かなスペックの相談をするのだという。要約すればそれだけのことで、三分で聞かされれば興味深い話も、三十分以上もほとんど口を挟む間もなく続けられると、さすがに耐えられなかった。

 一人がそんな話をすると、また別の一人が待ち構えていたかのように後に続く。その退屈な連鎖が、既に彼女の周りを何周もしていた。

 二年前の二〇〇七年頃から始まった世界的な金融危機は、昨年九月のリーマン・ブラザーズの破綻に続くAIGの経営危機、アメリカ下院での緊急経済安定化法案の否決といった“ショック”によって株価を暴落させ、一時は世界恐慌の危機さえ盛んに喧伝された。それがまるでなかったかのような、当の金融業界関係者らの羽振りの良さだった。

 来る前からわかりきっていたことだが、洋子はその光景に、ほとほと気分が悪くなった。

 法案は、大統領選を睨んだ政治的な駆け引きの下で直ちに修正可決されて、結局、七〇〇〇億ドルもの公的資金が投入された。危機の元凶であるウォール街の人間たちを、なぜ税金で救済しなければならないのかという世間の怒りは、ほとんど憐れむようにしてやり過ごされていた。

第七章・彼方と傷/11=平野啓一郎 石井正信・画

#マチネの終わりに


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平野 啓一郎

小説家です。著書は小説『ある男』『マチネの終わりに』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』、エッセイ『私とは何か「個人」から「分人」へ』など。

『マチネの終わりに』後編

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