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『マチネの終わりに』第六章(31)

 蒔野の心の中に、今更リチャードという一人の人間を住まわせる意味はなく、蒔野自身もそれを望まない風であることは察せられていた。黙っていようと思っていた。しかし、それ故に、彼が、その愛を以て、戦地で傷ついた恋人の心を慰めているつもりで、その実、恋敵の未練にかかずらう動揺まで面倒を看させられていた、というのは、何か、彼の誠実さに対する甘えた欺瞞であるように感じられた。
 一週間という滞在期間であれば、自分はきっと、平穏に過ごせるはずだと、洋子は努めて信じようとしていた。蒔野と再会し、そこで将来の約束をし、ただ彼の側にいられるというその幸福の只中で、どうしてイラクでの悪夢の発作に悩まされることなどあるだろうか。
 何もかもを忘れて、まっさらになりたかった。彼がいて、自分がいるというだけの実感の中で、もうこれまでの人生を生きなくてもいいと信じられるなら、自然に楽になれるという気がした。それもまた、彼女にとっては思いがけない感情の発見だった。それほどまでに、重荷と感じられる人生だっただろうか? わからなかった。しかし、少なくとも、バグダッドに残って、今もまだ取材を続けている自分の幻影は、もう仕事は終わっていることを知って、ようやく帰国の途に就くことが出来るのではあるまいか。……

 蒔野は、八月に入って参加した国内のギター・フェスティヴァルで、再び楽譜が飛んでしまうという失態に見舞われたが、今度は止まらずにごまかしたので、多くはそれに気づかなかった。しかし、演奏は、全体に上ずって性急で、いつものあの輪郭の冴えた精緻な構築物のような音楽を知っている者たちは、まるで誰か別の人間が弾いているような感じがした。不調であっても技術的には高度なだけに、却って指だけよく回る表面的な演奏に聞こえた。
 決して大きなコンサートではなく、ヴァイオリンとのデュオのあとに四曲ソロを弾くだけの舞台だったが、蒔野はいつになく緊張して、楽屋を出たり入ったりしていた。
 元々、静かに舞台を迎えられる質だったので、動揺を鎮めるために、付け焼き刃のやり方で、自己暗示の言葉を反復してみたり、トイレの鏡の前で笑顔を作ってみたりした。


第六章・消失点/31=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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