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「言葉」を使う生き物

ライブ配信を終えて、
夜道を自転車で帰る。

長いこと引きこもっている人が
この田舎に、単身で越してきた家がある。
しかし、意を決して引っ越してきても、
体調やらなんやらで、
外にはなかなか出られていないらしい。

まだ会ったことないけど
その人の家の電気が灯いていて、
「あぁ、居るんだな・・」
と思って通り過ぎる。

しばらく行くと、
とある宗教の支部になっている
ご近所の家も
眺めながら通り過ぎる。

*******

「私は引きこもりです」

「私は〇〇教の信者です」

「私は先生です」
「私は学生です」

「私は音楽家です」

「私は〇〇です」

なぜ、人は
名前をつけて
その立場を主張するのだろう?

しないとならないのだろう?

*******

その「名前」には
様々な価値やら意図が
付与されている。

ネガティヴなものもあるし
ポジティヴなものもある。

*******

「私は十数年、引きこもっていて・・・」
と言うときは、
とてもネガティヴな発言に感じる。

「すごく間違った存在なんだけど、
不本意ながら、
今、そういう状態なんです。」

と言っている。
ということが、
僕が捉える、
今の社会の合意に感じている。

でも、もし、
家を全く出ないで、
他人とのコミュニケーションが無い
ということが、
当然であり、日常であったのなら、
わざわざそんな主張をする必要がない。

だから、まぁ、
独りでいる時に
「私は引きこもり」だの
「私は音楽家」だの、
主張したりはしませんよね(笑)。

だから
他人や社会との関わりが生まれた時、
もしくはそれを求める時、
(「求め」のエネルギーと共に感じる
「抵抗感」を感じてみてください)
相対的に、コミュニケーションのために
名札を付けるわけだ。

********

自転車で
西へ西へ旅してる時、
下田から沼津の方へ抜ける
伊豆半島の田舎道はよかったな。

看板とかの主張がほとんどなく、
たまに交差点に土地の名前が記されてるくらい。

誰の所有でもなさそうな
(本当はあるのでしょうが)
土地を見つけては
テントを張って夜を明かした。
河原とか、砂浜とか、祠っぽい所とか。

箱根は回避したのに
やっぱり一番勾配がキツかったのは
修禅寺の峠だった。

下田〜修禅寺

名前くらいは聞いたことあるよね?

そんな有名な土地に近づくにつれて
憂鬱な気分になってきたことを思い出す。

やたら看板が増えてきたのだ。
「〇〇するなら〇〇!」
「〇〇といえば〇〇!」
「〇〇を提供します!」

すると、僕の自我がまた主張しだすのだ。
臨戦態勢に入るのだ。
社会との接点を模索し、
自分が何者かを
主張しなくてはならなくなるのだ。

「私は旅人です」
「私は音楽家です」

それらを使って、
存在を安定化させ、
LIVEやら、
話を聞いてもらうやら、
音楽を聞いてもらうやら、
誰かに泊めてもらうやら、
ご飯を奢ってもらうやら、
お金を施してもらうやら、
CD買ってもらうやら。

ざっと、そこらへんのことを
意図して、
名乗る準備をして、
同じように自転車を漕ぐのです。

結局、主張しなければ(しても?)
何も起こらないんだけどね…

********

そんな思い出話はさておいて、
人は
「名前」を使い、「言葉」を使い、
そこに何らかの「意味」を付与して、
その言葉のパッケージを使うんだな。

なんて、
夜道を自転車で漕いで
想ったのでした。

*******

「名札」がなければ、
どんな助けを求めているのか
わからない。

「名札」がなければ、
どんな助けを施そうとしているのか
わからない。

「名札」を付けても
それがお互いに
何を求め、何を主張しているのか
一致しなければ、
その言葉の威力は発揮されない。

*******

多分、本当に表したいのは「それ」ではない。
「それ」ではないから
その名前で全てを語れるわけがないから
僕は「言葉」を批判的に捉えてしまうのだろう。

でも、
僕ら人類は「言葉」を用いる。
ホモサピエンスは
「物語」を創り、信じることが出来るから、
集団の力を獲得し、
他の種族を滅し、生き残ってきた。と
サピエンス全史で語られた物語では言っていた。

それを僕は信じてる。

「言葉」で分けて、
僕らはそれを相対化して
「分かる」ことが出来る。

でもそれは「真理」ではない。
「真理」とは分かつことの出来ない、
「分かんない」もの
と定義するものだと
思っている。

******

そこに触れるために
「言葉」を使っている。

ということを自覚する。

多彩な「言葉」を響き合わせて、
流動的な「存在」が出来上がる。

「それ」は
その時、仮に「それ」として
存在させることにして、
分けて、分かることが出来るのだ。

でも
本当に「それ」が「それ」であるかどうか
なんて、
分かんないのです。

*********

「何か」で在ることは
存在を安定し得るけど、
「それ」だけに留まり続けることは
絶対に無い!

何かの「力」「流れ」を感じたら
その仮留めの名札を外すことも
楽に楽しく生きる
処世術になり得るだろう。

それでもまだ
名札を外せないなら、
しっかり「それ」が何なのか
味わってみよう。

気がつけば
その名札と実態が
合わないことを感じるだろう。

そしたらまた
新たな名札をつければいい。

********

名札付けをやめて、
あるがままを感じることも
出来るだろうし、
している時もあるけど
(散歩して、
こんなnoteのことを考えていない時は
ただただ「あるがまま」を
感じているんだよ)
僕はまだ、
「言葉」を手放すことは
出来ないでいる。

誰かと関わって、交わって、
響き合って変化していく自分を
望んでいるからかもしれない。

うたが、音が、言葉が、 もし心に響いてくれたなら サポートいただけたら嬉しいです。