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アイデンティティ

多様なニーズに
その時そのときに合ったスキルを
活用して、
社会参加をしていく。

そんな大人の在り方、
仕事のやり方は正しく、
実用的であると思う。

確かに、その都度
何らかの経験を積んできた。

様々なバイトの経験、
徒歩の旅、自転車の旅。
オーストラリア、韓国、
台湾、中国・・・。
震災ボランティア、
ニート引きこもりの
就労支援事業。
DIYの家の改修工事、
田んぼ、畑の農的暮らし。
子育て、親の介護。

音楽だって、
うた、ウクレレ、様々な楽器。
ウクレレの先生・・。

その都度その都度、
素人として学び、
「現実」に対応してきた。

今後もそれを
続けていくのだろうか?

死ぬまでそうして生きるのだろうか?

与えられた、追い詰められた
現実の消費者として、
出来るスキルを投資して、
「現実」に対応していく
だけなのだろうか?

誰が創った「現実」なのだろう?
誰が創った「社会の仕組み」
なんだろう?

そこに私自身の意志、
アイデンティティは
どのくらい介在できるのだろう?

この「強固だと思ってきた」
アイデンティティは
「現実」に対応するためだけの
「スキル」なのか?

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時代や環境に依って
生かしやすいスキル、
価値のあるスキルが変化する。

イマドキ、
そんなに「喧嘩が強い」というスキルは
生かす場所が
そんなに無いだろう。

そこで培われた、
精神力、根性、経験を生かして、
別のスキルとして進化させないと
今の時代は
生きにくいだろう。

戦国時代に武力で栄えた武士は、
江戸時代に入り、
「公務員」として、
公を統治するスキルを課せられた。

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己がしがみついた
アイデンティティを
越えた「人類としてのアイデンティティ」
で生きると好いのだろう。

しかしこの
「人類のアイデンティティ」の
一欠片ひとかけらは
僕ら一人一人の個性、自我、
「私はこういう人です!」と
主張するアイデンティティで
構成されている。

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社会の役に立つこと。
今の社会に必要なこと、
もっと自我視点で言ってみれば、
今の僕が生きにくい社会を
どうやって変えて、
僕等みんなが
行き心地好く生きていけるか。

そんな活動が、
多分、きっと、
これからの僕に必要で、
みんなも
そんな僕のアイデンティティで生きたら
応援してくれる。

そんな人は多く現れるだろう。

なんたって、
僕の主張するアイデンティティが
多くの人の自身のアイデンティティを
満たすことになるのだから。

大体、今の社会、
そんな企業が大儲けしているでしょう。
いわゆる「プラットホームビジネス」ってやつ。

音楽をするより
音楽を提供しあえるような
場を創ること。

戦争をするより
戦争ができるような
場を創ること。

仕事をするより
仕事をやり易くなるように
環境を創る仕事。

*******

現場で実働するよりも
その場を提供できること。

これを大きな視点と
いうのでしょうか?

******

そんな理想の人格は
わかっていながらも、
僕自身は
生きて、
何で喜び、何で感動するのか。

けっきょく
そこを大切にしてしまうのです。

限りある1日の時間を
そこに費やしたくなってしまうのです。

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固執したアイデンティティに
しがみついて、
どんどん孤立している感じを
実感しています。

でも、
僕がやらなくてもいいと
思えることを
誰かがどこかで
「私がやらなければ!」
と思う人がいる。

なら、
それはやらなくてもいい。

そこに居なくてもいい。

******

もっと
みんなが喜ぶことで
僕も喜ぶことが出来たら
と思うよ。

でも、
それは「僕」じゃないんだ。

みんなの笑顔が見れるのは
幸せなことだけど、
僕はみんなが笑顔になるために
何でもやってやろう。って

そこまではいけないんだ。

「アイデンティティ」が
引っかかっている。

その主張するアイデンティティを
外せばいいだけなのかもしれないけど、
わざわざそれを外さなくても、
それが出来る人は
僕じゃなくている。

そんな彼らが結果、
社会的成功や
人生の充足感を
味わっていたとして
羨ましく感じたりしたとしても、

それは「僕」ではない。

「僕」は「彼」を見る。

「彼」を「僕」で見る。

「僕」に「彼」が芽生える。

そして「彼」は「僕」になる。


そして、
僕は今、
「僕」で出来ることを
するんだ。

週2回のライブ配信。

視聴者が0人で、
やり方を変えることを考えたり、
何も生み出せてないんじゃないかと
思ってしまったり。

それでも、
今、これが
一番しっくりきている。

大きな舞台に立つこと。
多くのファンがいる存在であること。
仕事として経済活動が行われていること。

全ての社会的地位に於いて、
尻込みしてしまうような活動だけど、
恥ずかしくて
誰にも主張できないような活動だけど、
人目を偲んで
誰にも主張しなくても
在らしめたいと
主張する僕の自我がある。

そんな大切な「自我=アイデンティティ」で
振る舞える僕に、
心寄せて聴いてくれる人が
数人でもいてくれる奇跡。

「うれしいや・・・」

僕の高校時代の愛読書
「さくらの唄」の後編に
それでも絵を描く一ノ瀬くんが
美術塾の先生に褒められた時の
ひと言が
僕の言葉として蘇る。

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もう一度読んでみよう。
時代が、懐かしいな。
あの頃の活気は、
しんどかったよな。

はじめから
自分を信じていればよかったのに。

社会的成功は
ただのオプションで、
彩(いろどり)でしかない。

こんな漫画を読んで、
ドラマにもならないような
青春と、その後を過ごしました。

こんな漫画を探して、
学校サボって、
1日中、ウォークマンを
耳に挿しながら
自転車漕いで
古本屋を巡ってました。

そんな道でかいだ
春の匂い、夏の匂い、秋の匂い、
冬の匂いを、
唄って、蘇らせたいのです。

これは
僕の人生でしか出来ません。

こんな僕の詩、
表現で、
社会に馴染んでいけるのならば
大きな評価でも
小さな評価でもかまわないから
「うれしいや・・・」
って心から呟けると思う。


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