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役に立つこと。「経済」に探す居場所。

僕は10代の頃から
公園が好きです。

その次は河原かな?

楽器を、ギターを始めてから
公園で練習するのが好きだった。

外にいるのが好きだった。

詩を描き始めた中学生の頃から
何か色んな想いを紡ごうとしたけど
けっきょく、いつも
「青空を見上げる」
とか言って。

ボキャブラリーも経験も
少ない僕は
いつも空を見上げて
済まそうとしていた(笑)。

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自転車で旅をしていた時も、
どんな公園なら
テントを張れるか。
ベンチで寝れるか。

大きな音と声を出せるか。

日々、チェックしていて、
色んな公園に
色んな思い出が詰まっている。

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そしてランドマークになっている。

「あ、この公園知ってる」
そう言っては、
ここがどこら辺か、
どんな思い出を創った土地かを
確かめる。

奥さんに
「公園のアプリとか作ったら
ニーズあるんじゃない?」と、
雑談の中で言われたことがある。

確かに、
トイレがあるとか、
駐車場があるとか、
事前に知れたらいいよね。

googleさんが
世間を越権する前の時代の話ね。

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で、ちょっと下調べした時がある。

そんなことやってる人、いるのかな?

いた。

で、
そこで今、考えることは
「得意なことを生かして仕事にする」
って考え方。

そもそも
「仕事をする」って常識に
僕には疑問があって。

******

そりゃ、公園好きだよ。

でも、
僕はデータを集めることや
算段を組むことが
好きじゃない。

面白くないんだ。

この公園はどんな公園で、
こんな施設、遊具があるので
こんな方々に向いています。

なんてレポートは
僕の仕事じゃない。

学校の宿題として出されて、
面白味を見出すことが出来ても、
多少の金銭になろうとも、
そこに生きてる時間を注ぐ労力は
もったいなく感じる。

それだったら、
その日々の公園でのインスピレーションを
糧に、情景の見える詩を
描きたいもんだ。

BUMP OF CHICKENの「天体観測」の
「踏切の前」のように。

The ピーズの「日が暮れても彼女と歩いてた」
の、「橋を眺める景色」のように。
(どちらも僕の故郷の千葉の出身で、
千葉の風景を感じて、個人的な感想だなぁ
と思います)

******

ただ、「それ」が「仕事」というものになるのなら
大手を振ってそれを優先できる。
という現実に
少し苛立ちます。

マネタイズできることは
出来ないことより優先される。

窮屈だな・・・と思います。

これは
僕がそう捉えているから
そういう世界を映しちゃってるだけ・・
なんでしょうか?

そう。
そう生きれてる人もいて、
そう生きない人が生きれてもいい。

にしたい。

マネタイズ出来ることが優れていて、
出来ないことは劣っている。

「働き方」が多様になる。
とか言っても
それを
「お金を得るやり方」
が多様になるんだったら
「所得の得方」ばかりが
「仕事」と呼ばれるようになって
本来の「運動」としての「仕事」が
軽視されてしまう。

実際、
僕の親が介護状態になって、
親のお金をいろいろ管理するようになって
年金や、保険や、
僕の労働賃金では
到底得られないようなお金を、
銀行から銀行へ
出金して入金する作業をしたら
なんだかとても
意義のある仕事をしたような錯覚になって。

色々考えさせられた。

僕の親は今の時代では
結構高齢(団塊前の世代)なので
真面目に働いていたなら
年金プラスαで
今の僕らから見ると
かなりの財産を築けた世代だ。

*******

簡単にお金を得られる方法がある。

お金になることをすればいいんだ。

だから、
お金に関わる制度を
色々いじれる立場の人が
一番強いよね。

お金を上手に利用できる人が強くて
さらに
お金を利用させる立場で
それをコントロールできる人が
もっと強い。

それは
「お金があれば生きていける」
「お金がなければ生きていけない」
という社会構造に所以する。

******

この現実を批判して、
「ちゃんと実質のある仕事に
しっかり所得を与えるべきだ」
という意見には賛同する。

日本の供給能力が落ちれば
いくらお金を払っても
手に入らないものが
今後、色々出てくると思う。

家が欲しくても
家を建てる技術を持った人がいなくなれば
家は建てられなくなるだろう。

トンカチが欲しくても
鉄鉱石を採掘して、
生成する技術がなくなれば
トンカチは
手に入らなくなるだろう。

少なくとも
雲の上のような高値になって
雲のような金額のお金を
持ってる人しか
手に入れられなくなる。

そんな世の中は
身近に迫っている。
と感じる。

そんな意味で、
ちゃんと大切な技術を継承すべき。
価値ある仕事を育てるべき。

とも想う。

で、
僕はどうなのか?

寒さも、暑さも、
空腹も凌げない。

誰に届くわけでもない音楽を
「詩」を
ノートに紡ぐことに
一生懸命になってる。

ひと気のない公園を見つけて
独り、
そこで歌い、踊り、味わうことを
大切にしている。

社会にとって
何の価値があるのだろう?

と思う。

そんな僕でも
生きてていいのかな?

生きれていたいな。

それともやっぱり
嫌な思いを我慢して、
お金を得ること優先で
働いて生きないと
ダメかな?

世界が歪んでいるのは
僕の仕業かもしれない

チェインギャング/ ブルーハーツ

とも思うんだ。

*******

公園は
整備してくれる人がいて、
ベンチを供給してくれる人がいて、
需要がそんなに無い場所ほど、
ひと気がなくて
音も出せるし、
僕には居心地が良い。

そんな供給力のおかげで
生かしてもらっている。

需要のない公園の
需要のない野外ステージが
僕の練習のお気に入り場所だった。

それが去年、
取り壊された。

確かに老朽化して
危ないもんね。

そこに僕みたいな
怪しい人影が出入りしていたら、
不審だもんね。

何の経済効果も生まない僕なんて
いない方がいいよね。

******

そんなコンクリート作りの
野外ステージで練習している時、
1匹の迷い込んできた蟻に
話しかけたことがある。

「蟻さん、ここはね、
人間の土地なんだよ。
人間がこうやって
コンクリート固めて作った
人間の敷地なんだ。
もし、もっと君が有害で騒がしかったら
人間の権限により
駆除することも可能なんだよ。
でもいいよ。
許してあげる。
君一人だったら
特別に
ここにいてもいいよ」

って、
許してあげた。

僕は
許してもらえたかな?

僕は
誰かに許してもらって
生かしてもらっているような
存在なのかな?

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