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⑬巻上公一 / 殺しのブルース (1992)

ヒカシューが活動45周年を記念して日本各地を巡行している。筆者は7月16日(日)の静岡フリーキーショウ公演を観に行く予定。

 この機にヒカシューが昨年発表した『虹から虹へ』を聴き、そこから旧作へと遡ってまた同作へと戻ってくる。古いとか新しいという形容はさほど意味をなさず、歌と演奏、ことばが聴く者の中で活きていれば、それは現在の音楽だ。一貫したスタイルを45年続けているならば、なおのこと。もちろん時事ネタを扱っているとかそういう表面的な話をしているのではない。
 ヒカシューの一貫したスタイルとは、やはり巻上公一の声に負うところが大きい。いくつものの解釈を許す歌詞の文学性はもちろん素晴らしい。しかし、情景を浮かばせる以前に、サウンドとしての声、歌、言語ともいうべき原始的な悦びに気付かせてくれるのが巻上の声の力と思える。同郷出身の電気グルーヴや、きゃりーぱみゅぱみゅ、『ドラゴンクエスト』シリーズの呪文にも同じ力を感じる。共通するのは敷居が高くないところだ。神秘はあるが、開かれている。そんな巻上印の声の魅力が特に炸裂しているのが、90年代前半にジョン・ゾーンをプロデューサーとして招いた巻上のソロアルバム『殺しのブルース』と『Kuchinoha』である。
 今回の題である『殺しのブルース』は主に終戦から高度経済成長期突入直後の日本で書かれた、いわゆる歌謡曲を巻上流に再解釈したものである。『ユリイカ』1999年3月号「歌謡曲特集」内で、巻上は「昔の歌謡曲は声に出した時に色彩を帯びるような歌い方を探求していた」と話しており、オノマトペ的に響く日本語の機能をこのアルバムで改めて追及している。ゾーンの力添えもあり、マーク・リボー、ビル・ラズウェル、ガイ・クルセヴェック、スティーブ・バーンスタインなどなど、当時としてはかなり贅沢なニューヨーク・地下シーンの演奏者たちが並んでいる(さらに灰野敬二、大友良英、加藤英樹、ホッピー神山らも参加)。歌番組で実演される歌謡曲のバックバンドが、実は名うての奏者たちであることを考えれば、これは必然的な采配である。
 現場がニューヨークということもあり、トーキング・ヘッズがフーゴー・バルの音声詩を歌にしたことも思い出させる。しかし、『殺しのブルース』の妙味は、日本語で歌われる歌謡曲の特性を去勢せずに再構築したところにある。巻上から発せられる原始的サウンドは音であると同時に言葉の連なりこと歌詞であり、そこには物語がある。守屋浩「夜空の笛」のカヴァーは、姉を失った弟の心情が「チータカタッタ」と「ヤイヤイヤイ」という音に暗い色彩を与える。原曲が使われた映画は未見ゆえアレンジについては書けないのだが、「悪人志願」は呪詛めいた音使いと「日照り」や「雨降り」といった語または響きとの組み合わせがこれ以外はないというほどに合っている。唯一のオリジナル曲「うつろ」は音声詩と物語の交差で、奇妙な音たちが四季の風景を描き出す。「ウツロ」という音にもう釘付けだ。
 たとえ何について歌っているかわからなくとも、そこに宿る感情が音に乗り伝わる。筆者が思い当たる事実を例に出すならば、スティーヴン・ステイプルトン(Nurse With Wound)は日本語を理解できないまま東京キッドブラザーズ(ちなみに巻上は1974年の同劇団海外公演に参加している)のレコードに聞き惚れ、そこから切り取った歌を自分の音楽にコラージュした。言語の壁を越えて人を動かすのが音楽の力だとすれば、ヒカシュー~ソロワークから口琴の国際交流に至る巻上の活動全般には力が満ちている。
 収録曲についてもう少しだけ書く。「さいざんすマンボ」(トニー谷)は「サイザンス」「アイブラユー」が、「スキヤキエトフェー」(坂本九)では、「サシミ ソテー ヤキトリ ジャンバラヤ」といった具合に、言葉が意味をはぎとられオノマトペ化し、巨大な音として発せられる。自分が普段どんな音を聞き、それを言葉と認識しているのか、意識しないことについて揺さぶられる。
ジャックスの「マリアンヌ」は大友良英のGround Zero~『山下毅雄を斬る』あたりの前景的内容、すなわち壮絶な歌と演奏のうっちゃりである。押し寄せる声の大波に何度でもひっくり返る。

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