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母親になったことこそが我が人生の一大事

一女性の戯言、一意見ではあります、わたしの場合。

43歳の初産

祖母と我が子

20代の頃、私は結婚したいと考える人がいた。その人と築く生活を考え看護師の資格を取得した。20代で3人、その人の子供を産み母親になることが、あの頃は実現可能な夢だと確信していた。

その夢は振り返ると見事に全く叶わなかった。予想もしない現実だったが、29歳の時点で私は恋人も仕事も健康も失い、絶望の中で引きこもりながら生きていた。

女の29歳なんていうのは、最も生き生きと力強く生き得る実を結ぶような年頃だけど、私は地球上で生息しているだけで精一杯だった。

10年後、39歳で私は夫と結婚した。完全に止まったと思っていた自分の人生の車輪が再び動き出した。それまでの10年ほど精神的に非常に危機的な状況を幾度も繰り返し、極度の不眠となっていた。胃炎にも悩まされていた。

結婚当初、シンガポールにて

夫と結婚し、私は「よく眠れるようになった」「よく食べれるようになった」それは、非常に大事なことだった。

やせ細っていた私は新婚生活の中で酷い中年太りになった。安心して眠り、安心して食べる、そういう土壌で肥沃な子宮が育まれたのだと思う。その頃は40代に入り母親になることは完全に諦めていた。夫とともに刹那的ではあったが毎日楽しく仲良く慎ましく生活していた。2017年2月妊娠した。私は42歳だった。

子を妊娠する丁度1年前、私は自分がそれまでの人生で、最も愛することができたクリ坊という猫をこの腕の中で看取った。初めて看取ったのは猫だった。
妊娠を知るその1か月前には13年前に逝去した父方の祖父が夢枕に出てきた。

我が子がわたしの子宮に着床したとき、何とも不思議な冥界からのお告げのような摩訶不思議な現象は起きた。あの世とこの世は命を通して確かにつながっているという不思議な感覚をもった。

我が子は当たり前のように、私と夫のところへやってきてくれた。

命を身ごもる

42歳にしてはじめての妊娠だったが、即座に自分が妊娠したと体感した。どうしてもチーズケーキが食べたくなり珍しく自分で作った。が、一切チーズケーキを食べる気になれずに可笑しいなと思い妊娠検査薬で調べた。陽性だった。

精神疾患の既往歴があり、超高齢出産であり、初産だった。リスクが大きいのは一目瞭然だった。私たち夫婦は非常に純粋な部分があり、堕胎という選択肢は最初からなかった。私の精神症状が急速に悪化し錯乱なんてことになった時に隔離室で子供を守ることができなくなるんじゃないかというのが一番の懸案材料だった。

それまでも私は幾度となく錯乱し忘我状態になることが、しばしばあった。私の疾患の特徴として「永続的な欠陥を残さず寛解する傾向」がある。それが救いで、寛解時には普通に生活や人生を楽しめる。ただ一旦錯乱し忘我状態になると薬剤を使用しても鎮まらない。静かになるまで、乱心が治まるまで隔離室に入る必要が出る。

夫と私は3人の精神科の医師から判断を仰いだ。結局子を産むことになった東京医科大学病院の精神科の医師が妊娠・出産・産褥期にフォローしてくださる形をとりながら、それまで20年近く診てくださっている精神科のA医師にひきつづき精神科については診てもらう運びとなった。妊娠期間中は精神的にも落ち着いて過ごすことができた。懸念していたことは一切なかった。

あの時、相談した3人のうちの一人である女性の精神科医師と女性の精神保健福祉士、この2人の医療従事者と私の母親は「噓でしょう?」「産む気?正気?」というような反対の反応を示した。

私は母親になるという一世一代の決意と覚悟をした。41週間という妊娠期間をつかって、じっくりと覚悟をした。

多くの産婦人科の医師や看護師については私の年齢や精神疾患について、そんなに問題視しなかった。新宿で子供を産んだのだが、外国人やディープな訳ありの妊婦が仰山存在した。比較的「ふつうの、ありきたりの」の妊婦だったかもしれない。

お腹の中に我が子がいるというのは不思議な体験だった。精神的にも肉体的にも色んな不調は起きるが、妊娠という現象は自分の人生で起きた絶対的に肯定できる最高の体験だった。もし私が20代で初産でその体験をしていたら子だくさんになっていたと思う。子を身ごもり、育てるという体験は神秘そのもだ。

愛することをこの身で知る


初節句

出産は命がけで、それはもう凄い疼痛だし、凄い出血量だし、43歳の初産なんていうのは誰にもお薦めできるものではない。我が子にとっても生まれるというのは大変なことだったと思う。

それでも、あの喜びは筆舌に尽くしがたい。我が子が生まれたという感慨はそれまでのどんな恋愛感情も、どんな喜びも凌駕する圧倒的な喜びだった。身体の内側から、大地から湧き起こるような喜びだった。

はじめて授乳をした時、私は「幸せ」と確かに言った。我が子に9か月ほど授乳をした。心底満ち足りる幸福感を私は授乳を通して味わった。後にも先にも、あれほどの幸福感は体感したことがない。オキシトシンはすごい、おっぱいはすごい。

生まれて2週間ほどで子供は笑う。生理的微笑という。「笑顔」の本質をそれまで知らなかったことに気がつく。笑顔っていうのは人間の一番のいい姿だと我が子を通して43歳で知ることになる。

出産後、ガルガル期はすごかった。多分、今回の休職まで約6年間続いていたような気がする。常に気が張り詰めて、動物的本能で世界を見渡していた。兎に角もう我が子の命しか目に入らない。ホモサピエンス(♀)として我が子にしか夢中じゃないような、本能的視野狭窄に陥っていた。そして、それが非常に良かった。お母さんという体験は動物的なんだ。

何というか、自分の血を分けて、身を呈して子育てをする。髪の毛なんてボサボサで、家ではいつでもお乳をだせる状況にして子の欲求を満たす、そういうのが非常にオモシロかった。授乳を通して我が子が玉のように美しい赤子に育っていく、なんてオモシロいんだって。夫は夫で私がいい乳を出せるように毎日食料を調達し料理してくれる。そういう太古から行われてきた子を育てるための人間の原始的な行い、生活っていうのが非常に新鮮だった。

我が子が9か月の時に、我が家に経済的危機がきて私は断乳し看護師に復職、子を保育園に預けることになった。それまでの9か月は一生懸命に昼夜を問わず、この身を呈して、身も心も我が子のために生活するだけだった。思い起こせば最高に幸福だった。絶頂だ。

それと同時に、生まれたての子の子育てほど大変なことを私は知らない。

もうちょっと手や気を抜いても良かったんじゃないかと後から思うし、第2子、第3子と産み育てると良い塩梅がわかるのかもしれない。赤ん坊の子育ては最高の幸福であり、かつ最高の試練だ。看護師の業務の方が、ずっとずっとラクだったりもした。

私は我が子を通してでしか、人を愛することを理解し得なかった。今でも我が子の癇癪の前で、愛し方を学んでいる。

愛することほど尊い人間の行いはあり得ない。私はそれを我が子を産み育てることで知った。

我が子、今、5歳。

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