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囚われからの解放

なじみの田舎を持つこと。
それに憧れていた。

自分の生き様を作ってきた、
多くのものを大切に生きていきたい。

そして、それを丁寧にまとめて生きていきたい。
それを誰に当ててというわけでもなく、伝えていきたい。

今まで生きてきて、
子どもの頃から思っていたことはこれなんだと、コロナに罹患している間に考えていた。

………

①なんで、自然に惹かれるのか。
時間をかけて土にふれあい、そこで生きる人に会いにいくのか。

自分の生の原点が土にあるから。

本当は土になじみ、湧水と山の空気の中で生きていきたい自分がいるからだ。

②知図展に行き、思ったこと。

自分の生きてきたこと、感じたことを伝えたい。

なんで生きているのか、今ここにいる自分は、何を感じているのか。

子どもの頃から気になって仕方がなかった。

そこが私の原点。

③生きている中で何かに囚われている自分と向き合うことがとてもしんどいことだけど、とても大切。

囚われに気づくことがとてもしんどい。だから気づくことを避けるために、近代社会のシステムを作ったんだよね。

自分が考えなくても、答えが出るように、簡単にいろんなものを数値化し、上下関係を作り、支配と被支配を作った。

勝ち組を作り、より良いのは何かといつも比較していくことをしていった。

価値基準は楽しい、ステキだという自分が主体で判断するのではなくて、囚われている何かの基準と比較して良いか悪いか。
いつも何かに囚われていることに気づかないようにさせられていることにも気づかない。

………

ところで、倒れている間、
青に染まるクサギのことばかり考えていた。
どうしてもクサギの実が欲しくて、社会的制限から解放され、毎日のように探し求めているのだけど、灯台元暗しだよね。うちの住宅地の中の雑木林のようなところにわんさかあることに気づいた。

オレンジの壁のお宅の手前にクサギがあることに気づいた。崖に登れば、手が届く。


どうしても欲しい。
世間の常識で囚われていたら、
こんな崖の上にある木の実を
大人は取りに行かないんだよ。
でも欲しい。

どうにかしてこの崖に行きたい。

実はこの見えているお宅は息子と同級生のお嬢さんがいる(もう大人だから今はここに住んでないけど)。
犬友だったりもする。

勇気を振り絞り、ピンポン。
「お願いがあるの」と訪ねた。

孫がそこ登ってるわ。みたいな場所。

取れました。
でもまだ花が咲いていて、
思ったより少なかったけど、
収穫。

それで崖から降りてきたら、
ご近所さんが話しかけてきた。

何してたの?
クサギの話をする。
染め物の話をする。

公園の雑木林の植物で、
ご近所さんと草木染めがしたい。

子どもたちや高齢者の人たちとしたいってまでおしゃべりしてしまった。

帰ったら断然染めて、
お菓子包んで持っていこう。

周りの赤いところも染まるらしい。
30グラムだった。

染めた。
ワクワクした。

この色だよ。
びっくり。
でも子どもの時にこの実潰して、
なんか怖い色。
痛くなるんじゃないと思ったことがあるわ。

煮出すとすぐに色が出る。


崖を登らせてもらった人とおしゃべりした人に染めたものをプレゼントしたい。
そんな一心で、染め物をする。

庭の桜の枝も煮出そう。
やっぱりピンクが出る。

葉をとって煮出す


調子に乗っていたら、
熱湯をあしにかけてしまった。
火傷した。

靴下を履いていたので、脱ぐのが大変。
でもすぐに水で冷やして、蓄冷剤でも冷やして、馬油を塗った。

でも水ぶくれになった。
自分の身体ってすごい。

子ども頃火傷したことや、
自分の子どもに火傷させてしまったことを思い出した。

その時の情景や、その事件が起きたことすっかり忘れていたことが蘇る。
それと向き合い、そして、その背景の囚われから一つひとつ自分を解放していく。

多分染め物もそうなのかもしれない。

本当に楽しい以外何もない。

だけどそれは囚われからの解放で、
私はそうやって囚われを外しながら生きていくのだと、決めた。
いや、決まってたんだ。

火傷の後の体液を見て、思ったこともあるけど、これはこれでまた囚われからの解放で、これはまたの機会に。

そしてただひたすらに、オモロを伝え、
自然の中で生きると言うことが当たり前だと言うことを体現していく。

クサギ染めと桜の枝染め完成

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