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みずからを「尊い」と思えるには

何をするにも「自尊心」が根底で関わる、人とつながりを続けるには相手に向ける関心を維持しないといけないし、仕事をやっていくにはこなせる力を信じないといけない、すべて「それができる自分」を知っていないとやれない。

「それができる自分」はやっぱり経験を積んでうまくいった場面を記憶していくのが肝心で、自力で何とかできた、「安らげる状態になった」結果を掴んでいく姿勢が欠かせない。
自尊心は、「自分でできるのだ」という実感に他ならない。

依存体質の人も自己愛の強い人も、この「自分でできるのだ」の実感が足りないのを感じるのは、身に起きたことの結末を相手に委ねたい気持ちが強いからで、”自分で選択できない”、結末の責任を負いたくないのだろうなと思う。

「責任を負いたくない」恐怖と”間違えた自分”を受け取る絶望を想像するから逃げたい、でも望む結末はあるもんだからそれを叶えてほしい、相手は”自分のために”動くのが役割になる、要求だけは強いから期待通りにならなかったら失望して全力で攻撃する。
そんな自分がいかに自尊心を損なうかがわからない、他人を責めるほどに「自力で叶えられなかった」己が残ると気づかない。

愛されたいのに愛されない、愛情をじゃぶじゃぶと浴びて安心したいのに叶わない、それを「相手が悪い」で置いてしまうからいつまで経っても不安と焦燥がつきまとう。

自尊心はみずからを「尊い」とする心で、この「尊い」を人よりも優れているとか己の個性は稀少なのだとか、”特別だ”と思う部分で間違うといつまでも正しく育たない。
「尊い」はそのままの状態を慈しむ姿勢で、”特別”なのは己と他人すべてが等しく同じ、それぞれ唯一無二の自我をありのままで「いい」とできる心なのだと思う。
逆に、人と比べて「◯◯ができないから自分は劣っている」なんて思ってしまえば、己の存在理由そのものが危うくなる、「何をしても自分は(人と比べて)ダメなのだ」と勝手に優劣をつけると世間との関わりすべてが虚しくなる。

「自分と他人は違う」ならできることが変わるのも当たり前で、だから比較に意味はない、背負う事情も生きてきた背景もまったく違うのに何を比べるのか、そんなことより「この自分で何ができるのか」に集中するほうがよっぽど健全なのだ。

他人と自分を比べたって、その人は自分の有り様に何ひとつ責任を持ってはくれないでしょ、等しく自分だって相手から一方的に比較されて「こっちを何とかしろ」なんて言われても困るでしょ、それぞれ己の在り方には自身で責任を負うしかないのが当たり前で、だからできるできないに関係なく他人については「置いておけばいい」んじゃないのと思う。

私なんかは関節性リウマチを15年以上患っていて吃音症で、健常な人と比べたらどうしたって劣る、コミュニケーションが制限される自分に何億回も絶望してきた、それでも、「この自分で自分の思いを叶える」を同じ回数でこなしてきたから胸を張って生きている。

自尊心を正しく掴むまで何十年もかかった、家族から忌み嫌われる存在として侮蔑と嫌悪を向けられながら過ごした最初の18年間は、私から自愛も自信もすべてを奪った、でも「諦めなかった」よ、私を幸せにできるのは誰でもなく私なのだと気づいたからさ。

人に依らない「己がここに存在する理由」、他人と違っていたって普通の人よりできないことが多い自分だって、「己のためにできること」は絶対にある、好きなコーヒーを楽しむのも好きな人たちとのささやかな会話を楽しむのも、家族を愛して過ごす時間を大事にするのも、すべて「自力でやれる部分」に集中するんだよ、”自分以外の人間の恣意が及ばない”世界を見つけていくんだよ。

あと私の場合はこの「文章を書く力」がある、これも自力で培ってきたもので大事にしてきた、誰だってこの「”好き”を大切にして”成った自分”」がいるはずで、その姿を慈しむんだよ、尊ぶんだよ、他人の意思も関心も無関係な自我をちゃんと掴むのが自尊心だよねと思う。

人の「個性」は生き方や育ち方と同時に「何が好きでそこにどれほど自意識を向けてきたか」で作られる、自尊心が「自分の価値観を尊いと思える」で育っていると必ず人から見ても素晴らしいと感じる魅力になる、自分が人を見てそう感じるのと等しく「己も人にそう受け止めてもらえる」。

「自尊心を大切にする」ことを、何か大きな負荷がかかるとか精神的な負担が大きいとか感じる人がいるが、そうじゃなくて、「世界に向ける自分の価値観をまず自分で認められる」シンプルな力で、認めてもいいと思うことに誰の承認も要らない、自力でやれることを増やしていけばそれが自信になる。勝手にそうなる。

自尊心が正しく育てば他人との間に線を引くのが当たり前になる、それは拒絶ではなくて「自分と相手を等しく価値のある存在として認める」自我で、「等しいけれど同じにはしない」、それぞれの違いを正解にできる強さだよなと思う。
自分と他人が両立する世界が当たり前なんだよ、自分を大切に思うから他人も大切に思える、愛されたいなら愛するのが先と同じで、「まず自分から律していく」姿勢が他人からの愛情を愛情だと知る器を作るんだよね。

こういう抽象の話を嫌う人は多いが、目に見えない心や自尊心の在り方をどう形作るか、己がどう掴んでいるかで世界の見え方はまったく違ってくる。
だから「考える」、思考は己と世界が居心地よく交わるためのベース、常に揺らいで変化していくことを受け入れるのも選択を間違えない強さになると信じてる。


みずからを「尊い」と思えるには、「自分でできること」をしっかりと見る自意識が肝心だよねって話。


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