見出し画像

「向ける関心の大きさ」の話

自分が強い関心を向ける人ほど、その在り方ではなく「自分への関わり方」に注目してしまう。
先日私自身がやらかしたことだが、Twitterであれほど偉そうに依存体質の人の状態についてあれこれ言及するくせに結局テメェも繰り返してんじゃねェか、と気がついて凹んだ。

「その人に向ける関心の大きさをまず自分が扱えていない」とき、自分にとってその人の存在がどういう意味を持つのか、を正面から見ていない可能性が高くて、だから考えややり方がまとまらず整理できず、自信を持って関われないからやらかすんだよなあと思った。

依存体質の人にありがちなのが「その人のことが(恋愛でも友情でも)好きでたまらないのに本人はそれを必死に否定して矛盾だらけの言動に走る」で、はたから見ればそうなのだが「本人はそんな自分の状態からまず気づいていない」が見える。ときがある。

自分の理想や期待からちょっとでも外れる振る舞いが見えるともう恐怖心が心いっぱいに根を張りだす、「好かれていない自分」を実感する瞬間を想像してそれを回避するためにひねくれて天邪鬼なことをやりだす、そのくせ相手の気持ちや思惑はいっさい訊かないし「こうだろう」と決めつける、先日の私がそのまんまコレだった。

「人に期待はしないんだ」と言いながら相手の有り様を責めるのは依存で、「私(俺)が悪いと言いたいのか」と言われて「そんなつもりはない」と返してもそう思わせることをしている可能性を忘れてはならず、相手の受け止め方とは別に自分の振る舞いはね、正しく認めないと改善は生まれない。

ほかの人や家族ならこうはならないのに、一呼吸おいて相手の気持ちを想像する力を持てるのに、「この人に限って」狂ってしまうのは向ける関心の大きさから目をそらすからだ。

関心には種類があり、恋愛だったり友情だったり憧憬だったりといろいろ色は変わるが、その奥にあるのは「人として好き」だと思う。
ある一箇所だけを見て「好きだ」と思っても、人間は多面的なので別の長所や短所があり、それを目にして「”それでもまだ”好きだ」と思えるときに、愛着が生まれる。

「人として好き」の恐ろしいところは、たとえば「恋愛感情で好かれていないからもういい」で終われないところで、望んだ存在に相手がなってくれないとわかっても”まだ”好意を向けるのを止められない。
「相手の気持ちがどうであれ自分はこの人のことを好意的に受け止めているのだ」、は本来はその自分を好きになる自信を生むはずなのに、依存しているとそうではなく「そんな自分は惨めで愚かなのだ」と受け止めてしまう。

自分の在り方が相手から向けられる気持ちに左右されるのが依存体質の人で、それは相手の責任ではなくどこまでもその人自身の問題、勝手に自分の世界に他人を引き込んでいるだけなのだ。

だから己が抱える関心の大きさから目をそらす、そんな自分を認めたくないと必死に抗う、それでも「その人が目の前にいるとどうしようもなく感情が暴走してしまう」からネガなことをやらかして嫌われる。

私自身が昔そうだったが、そんなときに冷静に相手の姿を見て「でもこんなところがあるから好きでいても仕方ない」と諦めようとするが、突き詰めれば「自分の理想通りに存在してくれない不満」を抱えたくないだけなのだ。

嫌なところ、受け入れがたい部分があっても「それでも関わりを止められない」のならそれが自分の真実であり、向ける関心の大きさをまずは己がちゃんと実感しない限りは、みずからが生む矛盾に苦しむことが続く。

相手はこちらに無関心で連絡もくれない、それでも自分は電話でもLINEでもしてしまう、そこですでに関心があることを相手に伝えているわけで、”その自分”をどう見るか、やっている本人が「まともにわかっていない」から関わられた側は困惑し混乱し最終的に嫌悪を覚える。

接触には相手がいて、関わったからにはその相手にも意思が生まれるのは避けられない。
そのときにきちんと意識したいのが「同じく人としての好意を向けてくれる可能性」で、相手がいい感情を伝えてくれるのなら受け止める器と度量が必須になる。
”その自分”すらわかっていない人が相手の好意を受け止めるなんてできるはずがなくて、伝えてくれた言葉を「そうじゃない」と否定する、思いを弾かれた側は落胆するし悲しくなる、「諦める」。
自分がそんな選択を相手にさせている可能性、は必ずある。

いい関係を築きたいと思うし想像もする、でもいざ当人を目の前にすると感情が大揺れになって”落ち着かない”、その結果「0か100か」の白黒思考になり相手の姿をまともに見ない、いつまでもその繰り返しで互いに疲弊していくのが現実。

私は先日相手に向かって「どうせ私なんてあなたにとってその程度の存在なのだ」と吐いた、年に一度の連絡もくれずいつもこちらから電話をしないと会話ができないことを相手のせいにした、”そのときに相手の事情や現実を尋ねることをしなかった”。
相手はきっと言いたいことがあったはずで、でも「私なんか」「それがあなたの本音だよね」とすべてを決めつけてかかる私を目の前にして、”諦めた”のは当たり前だろうと思う。

白黒思考で己の現実にばかりこだわる人間を見て、心を開こうとする人間などいないのだ。

自分だってそうだろう、話をいっさい聞こうとせず心を閉ざしてこちらの在り方を責めるだけの人など、人としての好意を持てるはずがないだろう。

「向ける関心の大きさ」に己が怯んでいる限り、関係は思いに反比例して悪化していく。それが現実。

「そんな自分は惨めで愚かなのだ」とどこかで思っているから相手に心を開けない、存在を望む気持ちの強さに対して「そうなってもらえないとき」の絶望ばかり想像するから自信を持てない、依存が終わらない。

相手との考え方や価値観との相性もあってそれはまた別の話だが、まずは己がその人の存在の意味を”自分にとって”正しく理解していないと、その場しのぎのやる気を出したところで必ず破綻するのだ。

相手の在り方ではなく自分への関わり方にばかり注目してしまうのは愛されたい本音の裏返しで、その「愛されたい」に相手の状態や意思を反映させようとしないからすれ違う。

誰だって人として愛されたい、受け入れてもらいたい、それが本当に叶うのは相手の在り方を同じ目線でまっすぐに見たときで、相手の気持ちをまっすぐに受け入れたときで、それが対等であり尊重なのだろうなと思う。

それが伝わるから相手も心を開いてくれるし知ろうとしてくれる、大事にしてくれる。
「人は鏡なのだ」と思うのは、それができたときに等しくそうされる自分を見るときで、どれだけ陳腐で滑稽でも「誰かを一心に好きになる自分」は”正解”なのだ。

私はこの相手に向ける関心の大きさに自分が引いてしまい、その夜にまだそれでも自分の印象を変えようとあがく己を見て心底嫌になった。
これこそ依存ど真ん中の言動で、自分への感慨を変えさせようとするなんて悪手でしかなく、こういうときは大人しく「引く」に限ると思っている。
黙ることで関係に隙間ができる、それは無関心ではなく必要な息継ぎ、まず己の状態をね、ちゃんと見る勇気を持つのが先だよねと。

相手は自分と等しく身を置く現実を持つ、それは自分とは違う、そのなかでいかに居心地よく関わっていけるか、ストレスのない手段を考えるのが尊重だと思う。

大きすぎる関心を持つのが悪いのではない、”その自分”を正しく受け止めることができれば自信になる、胸を張って楽しい関わりを思いつく。
そしてその自分が相手にもまた好かれるのだと、忘れてはいけないのだ。

諦めないこと。
いつだってそれが他人と幸せな関係を築く基本になるのだと思う。

「向ける関心の大きさ」は、本当はそれだけ人を迎えられる己の器の大きさになるんじゃないのって話。

読んでいただき、ありがとうございます!  いただいたサポートは執筆の必需品、コーヒー代にあてさせていただきます!