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私たちの存在に意味はあるのか

私たちの住んでいるこの世界(宇宙)は私たちの意識すなわち脳の中でのみ存在している。この世界を認識する意識主体が存在しなければ、この世界の森羅万象はいっさい存在し得ないのだ。世界を規定するのは意識であり、意識が存在しなければ世界を認識することはできない。逆に意識さえ存在すればその意識主体の認識パターンにより世界はそれぞれ異なる有様を呈するとはいえ、世界は確実に私たちの前に現れるのだ。

それではその意識主体である「私」が死んだら世界はどうなるのか。実はこの問題に答えることはそう簡単ではない。確かにこの世界から私一人が忽然と姿を消しても“残ったもの”は何事も変わらず存在し続けるように思われる。このような“迷妄”に囚われるのは、この私の意識がすでに存在しないにもかかわらず、あたかも存在するかのように「私」の存在しない世界のことを考えてしまうことに起因する。

私一個の存在の有無どころか、いまこの時点で存在しているすべての意識主体(=人間)はどんなに長くても150年もすればすべて消滅し、私たちの存在のわずかな痕跡さえもいずれはすべての意識主体の記憶から消滅してしまう。時空的スケールでいえば太陽系の消滅さえも一瞬の出来事であり、そもそもこの時空的スケールという概念さえも私たちの意識が創出している観念に過ぎない。すなわち私たち人類の存在は宇宙の彼方に存在する無数の惑星において生成消滅を繰り返す知的生命体の存在と同じであり、私たちの存在は私たちの視点を超えたなんらかの視点が存在しなければ一瞬の出来事どころか、その存在自体まったく保証されないのだ。

私たちがこの地球上で生を享け、そして死んでいったという“かけがえのない事実”は、私たちの意識を超えた視点(あるいは宇宙の法則)がなければ、いっさいの意味を有さず、私たちの意識の消滅とともにあらゆる事物事象が蜃気楼のように消え失せてしまう。このことは、私たちの意識が消滅してしまえば「私たちはそもそも最初から存在しなかった」のとなんら変わることがないということだ。

ロシアの文豪ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の中でイワンに「もし神がいなければすべてが許される」と言わしめたように、もし私たちの視点を超えた視点、すなわち超越者の視点が存在しなければ、いかなる善行も悪行も意識の消滅によってすべて雲散霧消してしまう。私たち人間は超越者の存在を想定しない限り究極のニヒリズム(無の深淵)に遭遇してしまうのだ。

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