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根源的ニヒリズムは克服可能か

今この瞬間に私という存在が突然この世から消滅しても、世の中はなにひとつ変わることはないだろう。もちろん何人かの人は私の突然の非在を悲しんでくれるかもしれない。しかしながら、それとてそれほど長続きはせず、そのうち、私に関する朧げな記憶さえも忘却の彼方へと追いやられていくだろう。いや、それどころか、かつて私が存在したことを覚えていてくれていた人たちもやがてこの世から消滅してしまう。それでも、どこかの物理媒体に私がかつて存在したことを証明する痕跡が残されているかもしれない。

しかしながら、さらに悠久の時間が経過すれば、やがて私たちの故郷である地球さえ、いや太陽系さえも消滅してしまう。その前に超人的な能力と科学技術を獲得した私たちの子孫は遠い過去の地球上の出来事を記録した物理媒体を携えて太陽系外の惑星へと旅立つかもしれない。しかしながらこの天の川銀河、銀河団いやこの宇宙そのものがやがて終焉を迎えてしまうという。そうなれば、私たち人類がかつて太陽系第三惑星「地球」に存在したことを証明できる手掛かりはもはやどこにも残されていない。私たちが作り上げた高度な文明も科学技術も精神文化も森羅万象のいっさいは無の深淵へと消えていくのだ。

おそらくこの宇宙には、私たちと同じように、高度な文明を構築し、科学技術を発達させ、芸術を育んだ無数の意識主体が生成しては消滅していったに違いない。そしてこれからもそれはこの宇宙の終焉まで繰り返されるであろう。それにもかかわらず、私たちは数万光年も数億光年も離れた惑星において私たちのような知的生命体が今まさに花開いた文明を謳歌していようが、あるいは絶滅の危機に瀕していようが、彼らの存在にさえ全く気づいていない。というより、そもそも知る術がないのだ。

同じように、私たちが過去にどのような文明を築いて、どのような文化を育み、そして消滅していったか、数万光年あるいは数億光年離れた惑星に、いま現在生存している、あるいは将来生存するであろう意識主体にとってはいかなる意味も持ち得ないのだ。況んや、広大な宇宙の辺境にかつて存在した、あるいは未来に存在するであろう夥しいまでの無数の個々の意識主体の存在にいったいどれほどの意味があるというのか。

このような根源的なニヒリズムを克服するには、私たち人間や同等の意識主体をはるかに超えた存在者(超越者)の視点に立つか、個々の意識主体の意識の継続性もしくは普遍性を証明するしか方法はないのではないか。とはいえ残念ながら、超越者たり得ない私たち意識主体が、人間もしくは同等の意識主体を超えた存在者の存在を証明することも、同一意識の継続性や普遍性を証明することも原理的に不可能だ。

とはいえ、「証明できない」ということは必ずしも「存在しない」ことを意味しない。そもそも私たちの意識「自己意識」とはなにか、それさえも未だよく分かっていないのだ。将来、意識発生のメカニズムが科学的に解明されれば、意識の根本的な謎にもっと迫れるかもしれない。しかしながら、それ自体”物理的な存在”にすぎない私たちの脳が「意識の実体」を科学的に解明し、そのメカニズムを認識し把捉するなどということははたして可能なのだろうか。

根源的ニヒリズムを克服するには「自己意識の継続性もしくは普遍性を自然や芸術と戯れることによって直覚する(直感的に感じ取る)」しかないように思われる。

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