見出し画像

【重めの体験談】私の愛着障害の種

最初に


「将来、犯罪者になったらどうしよう……」
私の母から言われた言葉の中で、最も苦かったものがこれだ。

私は、両親に比べれば真面目に純朴に育っていた(はず)なのだが……。

両親からは、よく、

「寺へ入れる」だの、
「将来、犯罪者になったらどうしよう」だの、
「元々できる子ではないはずだよ」などと、

まるで、【ダメな子ども】と揶揄されているような言葉をかけられ育ってきた。

障害のある種からゆっくり芽が出て、

絶対的な安全基地であるはずの親から自己否定のシャワーをかけられて、
しおれた花のまま、社会に出たら「弱い」だの「今どきの若い子は」「忍耐力がない」などと言われるのだから、
障害の名のつくものにとって、生きにくい世の中である。

自己紹介

自己紹介として、私は静岡で予備校講師をしている。

20歳の自閉の傾向が強かったセダンの走り屋ヤンキーと、24歳の愛着障害をかかえたヤンキーの無計画子作り行為により、私はこの世に誕生した。家族の間に愛などなかったので、わずか3年で両親は離婚した。

生まれた時から、社会的階級は底辺スタートであったが、なんとか階級移動をしようと、低い能力で、よくもまあここまで来ることができたものである。周りの人々に感謝したい。

私は、いつも父親には恵まれなかった。
いつもというのは、私には父親が二人いる。

血の繋がったパパ

1人は自閉傾向の強いセダンの走り屋。悲しくも私と血が繋がっており、私の論理的思考は父親譲りだ。

父は、自分の彼女が、母になってから、彼女に不満をかかえていた。

「子供ばっかりで僕のことは全然構ってくれない!」

阿呆である。しかし、父も、両親から愛情を貰えていなかった背景から、愛に飢えていたのだろう。

寂しさを埋めるためか、父は新しい彼女を作った。馬鹿なので、法律を知らないのであろう。無知は罪である。

そして、父の新しい彼女は、「かずくん(父)のお店に行きたいな?♡」とおねだりをしたという。

ここで、普通の人だったら倫理観、法律、様々なことを考えて、断るはずなのだが、私の父は違った。

「母と子どもがいるけどいいの?」と聞き、「いいよ♡」と言われると、本当に連れていったというのである。
大馬鹿者である。

本当に連れていかれた彼女は終始、赤ちゃんの私と母親を睨んでいたという。

父は愛着障害で、試し行動をしたのだろうか。それとも、もしかしたら、彼は自閉症で、相手の感情を読み取れず、新しい彼女から放出した言葉を、全て客観的な事実(「いいよ♡」って言ってたし!)として捉えてしまったかもしれない。

聞きたくても分からない。絶縁と言われてしまってからは、もう聞きようがない。そもそも関わりをもちたくないし、聞きたくもないのだ。

その後、私の母から別れを告げられたかずくん(父)は、もう死ぬと言ってコードを首に巻くふりをしたという。なんとも恥ずかしく情けないことである。

2番目の父、ぼう

そんな、父親の代わりに、私のオムツを変える等、私の父親替わりをしてくれていたのが、
母親に思いを寄せていた18歳の男の子だった。
後に2番目のお父さんとなる。

肩にモノトーンのスマートな龍の刺青が入っていて、車は四駆や、シボレーのアストロといった大型の車を乗りこなし、それが本当によく似合っていた。

(30歳になったタイミングでダンディへの憧れからかトヨタのクラウンセダンに乗るのだが、全く似合っていなかった。車が浸水して故障したタイミングで手放し、ミニバンにもどっている。)

タバコはパーラメントという高級タバコを愛好しており、作業着も綺麗に着こなし、汚さがなかった。高級志向がよく似合っており、それも嫌味らしさがなく、格好が良かった。

何を隠そう、彼は自身が中学生の頃に父親を亡くし、ぽっかり空いた穴を埋めるようにヤンキーの道へ進むも、本来、いいご家庭育ちなのである。

私の「男性の好み」は、恐らく彼のスタイルの良さから来ている。(私の男性の好みは腰が細い人だ。)

2番目の父を「ぼう」といった。そのあだ名もよく似合っていた。私は「ぼう」のことが好きだったが、「ぼう」は、愛する女と別の男との血が繋がっている私を嫌っていた。

「ぼう」は、シャイで不器用だった。当時流行ったデコレーションメールなどは好まないし、私が好きだった絵文字や顔文字も使わない。いつも一言で終わるような、ぶっきらぼうな文面だった。

何かの集まりでは、前に出るタイプではなく、後ろの方で腕を組んで、ここぞと言う時に面白いことをぼそっと言うような所謂クールで寡黙な人だった。


「シャワーしてる時恥ずかしいこと思い出してキャーってなる?」って聞いたら、「そんなことをしても何も意味がない。だから、しない。」

「お風呂屋さん行けなくて刺青入れたこと後悔しないの?」と聞いたら、「知らない奴と風呂に入りたくない。だから、後悔してない。」と、朴訥とした話し方で答えていた。

彼は、子どものことは嫌いでなかったと思う。自分からは行かないけれど、来てくれるのは嬉しいと言った具合だった。
だから、自分のところに甘えにやってくる「いとこ」や、私の友達のことはよく可愛がっていた。

私は「ぼう」のそういう性格を分かっていたけど、自分から「ぼう」の元へ甘えに行くことは出来なかった。

トラックの運転手として夜働いている「ぼう」と私は、二人の時間が多かった。私は「ぼう」がとてつもなく怖かった。「ぼう」は、私にしか見せない顔があったのだ。

「ぼう」から、私に向ける笑顔はすくなかった。

理解が出来なければ叩かれた。

思い通りにならなければ、引きずられた。

壁に叩きつけられ壁や床に押さえ込まれた。

私の感情に寄り添わず、とにかく正論で理詰めされた。

暗いところで女の子の大事なところを触られた。

何度かあった。

「嫌だ」と言ったら「恥ずかしい?」と聞いて、やめてくれなかった。

恥ずかしいの意味がわからなかった。


私の「ぼう」との思い出は、「怖い」で満たされている。でも、私にとって唯一の父である「ぼう」のことは嫌いになれなかった。嫌いになれたらどんなに楽だっただろう。嫌いになれなかったから、諦めた。この諦める経験がなければ、私は周りの人と、もっと上手に人間関係を形成できていると思う。

ちなみに、余談だが漫画『スパイファミリー』のロイドは「ぼう」に似ている。かっこよくて好きだ。


「ぼう」に一度だけ反抗したことがある。高校一年生の時だ。

「ぼう」は、私にアルバイトの危険性を話してくれたが、私は言うことを聞かなかった。

「お前が家に金を入れないから私がアルバイトすることになってるのに、口出してくるな」

「金持ちの家に生まれてたらアルバイトなんかしてねえ」と言いたかった。

あるいは似たようなことをもしかしたら言ったかもしれない。

それが、家族としての「ぼう」との最後の会話だった。

「ぼう」はいなくなった。

「ぼう」は、隣の県で、新しい家族のパパとして生活しているときいた。

その時私は受験生だった。

周りの友人はみんな自分の将来に向けて大変な時期だった。だから、誰にも相談出来なかった。

聞いてくれて満たしてくれたのは受験とは無縁の地元の「不良」だった。そのうちの1人は、私の事が好きだと人伝に聞いた。今思えば、彼は私のことを本当に好きではなかったと思う。でも、別にどうでもよかった。お互いに都合が良かった。

こうして満たされない部分をもつ者同士が満たし合うために、不良のコミュニティは広がっていくのだと思う。


最後に

そんな、私たちが社会で🌸満開の花🌸を咲かせるには、

自身の抱える弱さを認め、客観視し、受け入れて生きていくことが必要である。

絶望している自分も、弱い自分も、全部含めて自分だ。そんな自分と出会えたことが分かったのなら、

一緒に手を取り合って、人生という長い道を歩いて行こうではないか。

私には、それがまだできないけれども。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?