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僕と阪神タイガース① 大阪編

今日は仕事以外の話題を。

阪神タイガース、やったぜ日本一!!
いやーーー、よかった😉
めちゃくちゃしびれましたね。
日本シリーズ期間は毎日テレビに釘付け。

シリーズ前半は娘(中一、反抗期片足突っ込み中)とテレビのチャンネル争いをしてましたが、5戦目以降は諦めたのか、何も言わずに譲ってくれました。

最近野球好きになった息子(小3、Switch命)と中学時ソフトボーラーだった妻と連日観戦しました。  

38年振りの日本一!!!
せっかくなんで久々にユニフォームを引っ張り出してパジャマ代わりにする事に。
着心地悪くて、すぐやめました😥
ユニフォームは球場で着るものですね。

日本一を祝して記念撮影
誰のユニフォームか分かりますか?


って話していると、熱狂的な阪神ファンかと思われるもしれませんが、実は微妙なラインなので、僕の生い立ちと野球遍歴を告白しておきたいと思います。

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1978年 大阪北部の箕面市で生を受ける


父親は当然の様に阪神ファン(熱狂的まではいかない)で、当時の大阪の子供達が皆そうであったように、トラ党としての情操教育を受けて育ちます。

1984年頃 6歳、物心がつく


僕の人生の記憶は
・家に自分よりでかい犬がいる事(ラフコリー)
・庭で飼っていたニワトリが毎朝うるさい事
・(ランディー)バースは控えめに言って"神"だと思っていた事。

から始まります。
 

1985年 7歳、阪神日本一 


とにかく街もテレビも盛り上がっており、クラスでの友達の会話も野球一色でした。
バース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発や日本一の瞬間は未だに覚えてますね。
(ただ幾度となく再放送されているので、記憶が上書きされているだけかもしれませんが。)
 

1980年代後半 小学生時代

とにかく野球が大好きで毎日友達と野球(と、ファミコン)をし、家に帰ったら6時には居間のテレビ前に正座し、メガホンを握り、阪神の半被(31番 掛布雅之)を着込んで阪神戦を鑑賞する律儀な少年でした。

どんな時でも阪神のホームゲームを生中継してくれる地上波"サンテレビ"はいつも強い味方でした。

ビジターでの試合は"最強サンテレビ"でも中継がない時があり、そんな時は専らラジオ(1008kHz ABCラジオ )でした。
小学校低学年で既にラジオを嗜む渋い少年でした。
おばあちゃんにもらった黒い、重いトランジスタラジオを愛用していました。
「壊れかけのradio」が流行る前、思春期になる随分前の話です。

阪神の成績の方はからきしの時代でした。
"ダメ虎"なんて言われていた期間でしたが、周りもほとんど阪神ファンなので比較対象が身近におらず、良いも悪いも、負けても普通たまに勝つと猛烈に嬉しい。
という今振り返ると、幸せに生きる為の理想的なマインドセットであったなと思います
欲にまみれた今の自分に見習わせたいものです。

当時の大阪キッズはみんな縦縞キャップを被ってました。
友人と一緒に。右が僕

そんなタイガース一筋、な少年期を過ごすのですが球場にプロ野球を見に行くのは一年に一度、あるかないかの大イベント。

ただ住んでいたのは大阪北部の町「箕面」。
大阪の鉄道網を把握している方はお分かりいただけるかと思いますが、箕面は阪急電鉄沿線なんです。

おばあちゃんは例外なく「阪急友の会」に入っている訳です。
友の会で年に一度ほど西宮球場で行われる、阪急ブレーブス(現オリックス)戦のチケットがもらえるのです。

年に一度の野球観戦が、阪神から阪急、甲子園から西宮にすり替わるのですが、まあプロ野球はプロ野球なのでいつも楽しみにしていました。

特にその頃の阪急ブレーブスは、福本、松永、ブーマー、石嶺(後に阪神)、蓑田といった超強力打線。
投げては今井雄太郎、山田久志、星野、山沖といった陣容で、いっそ弱小阪神より、阪急ファンに鞍替えしようかと思うのですが、DNAに刻みこまれた"何か"がそうはさせてはくれません。

観戦当日と翌日くらいはブレーブスファンになるのですが、3日もするとタイガースファンに戻る様に形状記憶されていました。

少年時代に感じた野球場に行く時の高揚感や、心臓が高鳴る感じは忘れることは無いだろうと思います。
僕のドキドキワクワクの原体験であり、今の仕事に少なからず影響していると思います。

プレイヤーとしての僕は小3から子供会のソフトボール少年団に所属しました。
この時代は子供も多く、小学校区を細分化した子供会レベルでも15人以上の団員を抱え、一つの小学校だけで7-8チームくらいあるという群雄割拠の時代でした。

いまや一校単独で野球チーム作れるのも贅沢な話なので時代は変わりましたね。

みんな野球(たまにサッカー)、みんな阪神ファン(巨人ファンはチラホラいる。他の球団だと「なんで?」と必ず聞かれる。)、ほとんどが子供会のソフトボールをやっている。

画一的だけど、あれはあれで良い時代だったな、とも思います。

プレイヤーとしては3番ショートでした。
俊足巧打で一発もある良い選手でした。(証拠がないのでなんとでも言えます笑)

ソフトボール時代。前列右から2人目が僕。
確か優勝したはず(4年生)

1991年 13歳、中学生になる


「阪神に入ってダメ虎を強くするんや!」
との少年時代の誓いに反し、中学校では陸上部に入部します。
リトルリーグには行ってなかったし、井の中の蛙やろ、と意外にクールに現実を受けとめていました
プロ野球選手になる夢はここであっさり潰えます。

阪神好きは相変わらずで、1992 年はマイク仲田や湯舟、中込ら投手陣の躍進、新庄、亀山らの若手に、オマリー、パチョレックらの助っ人が大活躍し突然の覚醒。
なんと久々の優勝争いを演じます。

9月11日の伝説の6時間超えの試合は、当時通っていた学習塾で見ていました。
学習塾で、講義を中断して野球を見るって今思うとどうかしてる、のですが昔はそういうストライキみたいなのがちょくちょくあった気がします。

生徒達も気がそぞろで集中出来ず、塾講師も仕方なしという体で、講義を中断しテレビをつけたのだと思います。
つくづくいい(?)時代でした。

結局、塾中には試合は終わらず家に帰って続きを"最強サンテレビ"で見た事を覚えています。
0時を回っても続く試合、放送し続ける"最強サンテレビ"、寝ろとも言わない親。
つくづくいい時代をいい土地、いい親元で育ちました。

結局、1992年はリーグ優勝でぎず残念な結果(当時はCSは無し)でしたが、強いチームを応援する楽しさに気づきます。

1994年 高校生になる


小学校で一番足が早くても、中学校の陸上部内では4番目でした。
中3の時、200m走で大阪府大会に出場するも予選組8人走ったうちの6着。。。。(ちなみに同組5着は市の大会で1,2位を争って結局負けた身近なライバルのT君。)

こりゃダメだ、と思い高校ではラグビー部に入部。

ラグビーに限らずですが高校生の部活だと、競技はするけど全く他の試合は見ない人、他の試合を見るのも好きな人が存在しますが僕は後者でした。

ラグビー観戦に時間を割き、他にも高校生といえば色々忙しくなる年頃なので、必然的に徐々にプロ野球観戦時間は減っていきます。

それでも友人達と時折、甲子園球場に阪神戦を見に行ったりもしてました。
でも当時は戦績的には暗黒時代でした。

阪神大震災をこの頃経験するのですが、あの体験は衝撃的でした。

そんな中、当時神戸に本拠地を持つオリックスブルーウェーブが「頑張ろう神戸」のスローガンを掲げ、イチローの大活躍で日本一になったのは大きく明るいニュースでした。
急に周りにオリックスファンが増えたのですが、そんな事は気にもなりませんでした。
僕も実際応援してましたし。

野茂投手がメジャー挑戦して、一気にメジャーリーグが身近になったり、ちょうどなんか多様化していく時代だったのか、視界が広がるお年頃もあったのかもしれませんね。

1998年 19歳 旅立ちの時


その後大学受験。
一年の浪人期間を経て、長野県の信州大学に進学する事が決まります。

生まれてはじめて阪神タイガースのお膝元である関西の地を離れる事になりました。

親元、お膝元を離れて僕の野球遍歴はどうなっていくのか?
ちょっと疲れたので、続きは後編にします。

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最後まで読んでいただきありがとうございました!
今日は仕事から離れて、今ホットであろうネタを自身に絡めて記事にしてみました。

大阪盛り上がってるんやろな。。。
関西圏のOMOでは何かイベントはあるんでしょうか?
レンジャーさんがディープなタイガーススポットを紹介してくれるのかもしれませんね。

ぜひ、またご覧ください。


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