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いつか書いた小説からの抜粋

神がこの世をプログラミングしたのならば、その世界に生きる者の目的はただ一つ。「神のプログラムを解読せよ」。その手段としての「知の構築」。
そのために我々にできることは「生存」すること。そのアルゴリズムは「競争」である。

なぜ、彼らは蘇ったのか?人類は彼らから何を学ぶのか?この物語はまだ始まり以前である。

灼熱の恒星から放たれた熱波は、たちまちのうちにその惑星を包み込んだ。バリアを突き抜けたその波が細かい粒子たちで構成された流動的な丘を、生命体の分子構造を維持するのが困難なほどの熱量で焼き尽くす。

神がプログラムしたこの環境設定は生命体らにとって、どれほど過酷なものなのかは、全宇宙の生命体分布率を見れば一目瞭然である。

神は、まるで「生命体」が「生存」することが「ほとんど不可能」な状態を創り出し、彼らの狼狽ぶりを楽しむ無邪気で冷酷で残忍な子どもの様である。

大都市が大都市であるために必要不可欠なもの、それは物流を支える交通網である。ネット世界がネット世界であるために必要なものはWeb。つまり蜘蛛の巣のように張り巡らされた情報の交通網である。

では、生命体はどうか?生命体が生命体であるために必要不可欠なもの、それは各細胞にエネルギーを供給するためのシステム。血管網である。

この世界には、全ての欲求が満たされた状態というものが、果たして存在するのだろうか?想像してもらいたい。そんな状況が考えられるだろうか。我々人類が発展してきた原動力は、果てしない欲求のおかげだともいえるのではないだろうか。
現状に満足してしまえば、それ以上の発展はない。不満こそが発展に繋がる重要なキーワードなのかもしれない。
では、不満とは何であろうか。
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小さな公園。隅っこで子どもがしゃがみ込み地面を見つめる。
アリの行列である。
それは子供の本能を刺激する。彼は落ちていた木の小枝を手に取り、アリの行列を攻撃した。乱れた隊列。それを観察する子ども。
そのうちアリたちは隊列を整え再び行進を始める。
幾度となく続く攻撃。その度に三度四度と隊列を整えるアリたち。彼らにはそうする事しか出来ないのだ。
そのうち攻撃に飽きた子どもは友達の下へと去っていった。その子は何を見て何を感じたのだろうか?

一体、神は何を求めているのか?

想像するに、神が置かれた状況というのは、全ての欲求が満たされた状態に限りなく近いはずだ。しかし、神は満足しない。現状に不満を持っているのだ。

不満とは何か?

全ての欲求を満たしても尚、湧き出てくるもの。それは全ての意識の中に存在する「漠然とした飢餓感」なのではないだろうか?
神もまた、ハングリーなのかもしれない。

暗闇。強風が吹き荒れる。本能が反応する。
「ここは危険だ」
一歩足を踏み出すことが、生命の存続に関わると本能が叫ぶ。
無言で立ちすくむ彼ら。ただ寒さに耐えていた。いったいどれくらいの時間そこに立ちすくんでいたのか?東の空がうっすらと明るくなる。次第に見えてきた風景に、本能の声は正しかったと思い知らされる。そこは断崖絶壁。一歩踏み出せば真っ逆さまに崖下の打ちつける白波に飲み込まれる。
遥か彼方、水平線が視認できるようになる。無言の彼らはその風景に圧倒され神聖な心持ちでその瞬間を待つ。冷え込みは厳しく体の芯まで冷気が忍び込んできたとき、彼らが東側の水平線を指さし叫んだ。その瞬間が訪れたのだ。

新年最初の日の出である。

日の出はこの宇宙のダイナミックな動きを生命体の裸眼で確認できる数少ないイベントの一つなのかもしれない。いや、数少なくなってしまったというべきか。・・・それも違う。宇宙の現象としてのイベントの数は今も昔も変わらない。変わってしまったのは生命体の意識のほうだろうか。個人主義が進んだ社会では、自分自身が世界の中心であるという意識が多数を占める。その結果、我々は大宇宙の一大イベントも、自分自身が楽しむためのエンターテインメントの一つであると認識する。

しかし実際はどうだろうか?
こう考える生命体がいるのも事実である。

”我々はこの大宇宙の中のほんのごく一部、砂粒である”

これは個人を過小評価しているわけでもなく、卑下しているわけでもない。ただ、自然に敬意をはらっているだけである。
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”あなたが万物に敬意を払えば、それらはあなたに敬意を払うだろう”
-Arapaho-
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この日崖っぷちに立ち、ダイナミックな日の出を見た彼ら。彼らの心は澄んでいた。

微かな振動がリズムを刻む。そのリズムは単調で規則正しい。物体が生命体になる瞬間である。そのリズムは生命体が物体に帰るまで、正確に刻まれ続ける。生命はなんのために生まれ、どこに向かうのか?彼らは何のために生まれ、どこに向かうのか?

動き始めた鼓動は、採算とか、理由とか、意味とか、そんな程度の事では止まらない。何故なら、まだ、物体に成り果ててはいないから。物体に成り果てる理由が見つからない。鼓動が止まらない。ならば・・・。

生命は道を探し続ける。

それが、鼓動の唯一の意味である。


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