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決して読んではいけません(異端児の思考)

「教職員残業、過労死レベル」というニュースを見ました。そこで今回は、学校教育について考えてみたいと思います。

◾️「聖職者」から「奴隷」へ

「教職員」のことを先生と呼びます。学校の先生ですね。先生という字は、先に生きると書きます。先生とは本来、生徒よりも先に生きた分だけの、生きるための知恵を授ける存在だったことがこの文字から伺い知れます。

私は異端児なのでそう解釈してます。笑

ところが現実はどうでしょうか?いい年こいたお子を持つ親御さんから「うちの子供に箸の持ち方を教えてくれ」とか、「マナーを教えてくれ」とか、いやいやそれは教育じゃないでしょう?そこは家庭のしつけの部分じゃないの?などと私異端児はどうしても考えてしまうわけです。

かつて教職員は「聖職者」として社会的に強い立場でした。聖職者は誇りを持ち、聖職者たろうと自己を研鑽し続けました。生徒たちもまた生きる知恵を学ぼうと自己を研鑽しました。そういう時代が確かに存在しました。

ところが現在の世では、教職員は「教育サービス提供者」に成り下がり、生徒はお金を払う「お客様」になってしまいました。

教職員と生徒の立場は逆転し、生徒とその親御さんたちは教職員をまるで「奴隷」のようにこき使うようになったのです。

その結果が「教職員残業、過労死レベル」となってしまっていると、私、異端児はそう思うわけです。

ではなぜ、かつては「聖職者」であった教職員が「奴隷」にまで成り下がったのか考えていきたいと思います。

◾️手段と目的(なぜ?と問い続ける重要性)

人はなぜ教育を受けるのでしょうか?いい学校に行くため。いい大学に行くため。いい会社に就職するため。出世するため。東大に行きたいから。官僚になりたいから。なるほど理由は様々です。

人は太古の昔から「なぜ?」と問い続けてきました。なぜでしょうか?

人は暗闇に恐怖を感じます。これは本能に刻み込まれた感情の一つです。なぜ恐怖を感じるのでしょうか?

見えないからです。情報の量が少ないからです。不意に襲われる確率が上がるからです。自らの安全を保証できない。生き延びる上で恐怖の感情は、いわば「危機回避のためのブレーキ」の機能を果たすものだと、私、異端児は考えるわけです。

何が言いたいのか?

もう一つ話は逸れます。猫を飼っていて引っ越しをすると、猫はあたりを嗅ぎまわります。匂いを嗅ぎ、舌で舐め、目で確認し、五感をフルに使い新しい住処の情報を集めます。先ほどの暗闇同様情報の量が少ないのです。安全が確保できない。

ところが、新しい環境というのは、恐怖よりも好奇心が勝ります。私、異端児は、そう考えます。

圧倒的な情報不足に人は恐怖を感じ、新たな情報に人は好奇心を感じます。

何が言いたいのか?

つまり、人が学問をする動機というのは本質的なところ、恐怖心と好奇心という二つの相反する感情からくるものなのではないでしょうか。恐怖が少なく好奇心を満たせる人生を送りたいと人は考えるものなのではないでしょうか。

なぜ教育を受けるのか?に戻ります。

教育を受けたい、受けさせたい、多くのひとの本音はお金でしょう。いい仕事に就けばいい暮らしができる。しかしこれは裏を返せばいい仕事にありつけなければ貧乏になってしまうという恐怖心なのではないでしょうか。

お金があれば食べ物が買える。生き延びられます。
お金があればいい医者にかかれる。生き延びられます。
お金があれば・・・、生き延びることは可能なんです。

しかし、よくよく考えてみると、これは、実は生き延びるための「手段」なのです。どう生き延びるか?「お金を稼ぐ方法=生き延び方」なのです。「手段」なのです。

手段とは何か?目的を達成するための方法です。

目的?

生きる目的?

なぜ生きるのか?

さて困りました。これを教えてくれる人はどこにもいません。きっと誰も知らないでしょう。宇宙の神秘と同じです。ビックバン以前を誰も知らないように、なぜ生きるのかという問いに答えられる人はいないのです。答えが・・・ない。

人はなぜ教育を受けるのでしょうか?「手段」を学ぶためでしょうか?それも重要なのは十分承知しています。しかし、人はなぜ教育を受けるのでしょうか?なぜ「手段」を学ぶのでしょうか?そこのところが曖昧なのです。非常に曖昧なのです。

常にクローズアップされるのは金、金、金。金さえあればそれでいい。

果たして金はゴールなのでしょうか?人類の到達点なのでしょうか?

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