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HIROBA編集版 「阿久悠をめぐる対話を終えて」(全8回) 第1回「狂気の伝達」

2019.08.01

第1回「狂気の伝達」

阿久悠によれば、歌にとって大事なのは「狂気の伝達」なのだそうです。

手書きの原稿を作曲家に渡すのをこだわったのも、自らが詞を書き上げたときの「熱」をそのままに届けたいという理由からで、その原稿も作曲家に渡したまま返却してくれとは言わず、送ったきりとなることも多かったようです。

彼にとって原稿とは、まさにクリエイターどうしの手紙だったのかもしれません。

デジタル全盛の現代において、おもに旧世代が持つ、手書きに対する「信仰」のようなものはすでに忌避されて久しいですが、実際の直筆原稿を目にした自分の感想から言うと、阿久悠の手書き原稿へのこだわりは、実は、そのような精神論だけからくるようなものではなかったのではないかと感じました。

表紙のタイトルには丁寧なレタリングがほどこされ、楽曲のイメージに合わせて全体がデザインされていました。放送作家という彼の出自から考えても、原稿自体がさながら企画書のような体裁にも見えました。

その多くは彼が学生時代から膨大に見てきた大衆映画を想起させるもので、詞に組み込まれたアイディアの背景を感じさせ、単純な文字情報を越えた、作曲家とのイメージのすり合わせに大きな効果をもたらすものであったように推察できます。

つまりは、直筆であったことに、実務的な意味合いもあったのではないかということです。また70年代当時、阿久悠とタッグを組んだのはいずれも彼と同様に人間離れした膨大な量の仕事をこなしていた人気作曲家たちで、手書きの原稿を渡すというある種のプレッシャーがけは、感情論うんぬんもありますが、作曲家たちに自分の作品へのウェイトをしっかりと保ってもらうための、より現実的な働きかけでもあったと思います。

ともすれば阿久悠の「熱」や「狂気」は、古い精神論の範疇だけで片付けられてしまいがちですが、作品づくりにたいして真剣であるがゆえにこそ、彼はよりしたたかで、戦略的で、そして異様なまでにリアリストだった一面もあったように僕には思えました。

とはいえそれらの一面は阿久悠という作り手の、いくつも折り重なった階層のうちのひとつでしかなく、やはり基本的には、ものづくりにおけるクリエイター間での熱のあるやりとりを、心から求めるひとであったことは、もちろん疑うところではないでしょう。

※この連載は、ETV特集「いきものがかり水野良樹の阿久悠をめぐる対話」(NHK Eテレ2017年9月23日放送)の出演を経て、水野が2017年10月にまとめたエッセイの再掲載です。一部、記述が2017年当時の状況に沿ったものとなっておりますことを、予めご了承ください。

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