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第二話 インド3

かすかに潮の匂いがしました。海と砂浜が近くなのは間違いないようです。

どこまでも続く白い滑らかな砂浜に、晴れ渡る青空。それを目当てにやってくるインドの褐色の青年たち。そして深いエメラルドの海を前に、思い思いに耽る人々。僕は椰子の木陰に腰を下ろして、そよぐ風に少し眠気を誘われながら彼らを眺めています。そうしているうちに、空は傾いた夕陽で燃えるような紅に染まっていき、日はやがて刻々と闇のグラデーションを描いて水平線に沈んでいくのです。その光景が浮かぶと、弱りかけの僕の心は、再び意思のある鼓動で少し震えたのでした。

降車客たちが遠ざかっていきます。標識の前で呆然と突っ立ったまま、まだ見ぬ海に一人浸っていた僕は、ギシギシと苦しそうに喘ぎながら入ってきた貨物列車の大きな汽笛に促され、あちこちにペンキの剥がれた跡が残るくたびれた駅舎へと向かうのでした。

手に握った切符は回収されるものだと思っていました。でも、この駅にもその役目を負う駅員はいません。これでは、無賃乗車をしてくださいと言っているようなものです。

「そう、インドはこうでなくちゃ」

僕は心の中でそう呟きます。適当さ。インドで取材を進めていくにあたって、僕がまず発揮すべきだったのは、あらゆることに対して「まぁこんなものか」とやり過ごす鷹揚さだったのかもしれません。

キオスクに立ち寄り、スナックとサイダーを買いました。
駅備え付けの食堂はあったのですが、なんとなく腰を落ち着ける気にならず、立ったままポリポリやっていると、また次の列車がホームへと入ってきます。

すると、隣のくたびれたパイプ椅子に座っていた制服の男がおもむろに立ち上がり、新たな降車客を無作為に捕まえて、何やら話を始めました。
一人ひとり切符の確認しているところを見ると、どうやら抜き打ちの改札をしているようです。面白がって見ていると、話しかけられたある若い男性は「落としてしまったんだよ」とでも言うようにジェスチャーをしています。そして悪びれた顔もせず、素直にカネを払ったところを見ると、やはり無賃乗車は日常茶飯に横行しているのかもしれませんでした。

さて、新しい街に着いてまずやることと言えば、安くて、便利で、清潔で、居心地の悪くない宿を探すことです。
これを解決できないことには、取材に集中するなどあり得ないのです。そこで、今回はより慎重を期して、偽レビューばかりのアプリに頼るのをやめ、街歩きをしながら実際に目で見て探すことにしました。

人の流れは駅を出てすぐの地下道へと吸い込まれていきます。彼らに従って歩いていくと、ほの暗い地下トンネルの中はひんやりとしていて、みんな声の反響を気にしてか、この界隈には珍しい静寂がありました。そして、忙しく行き交う人々の他には、通路の両側に物売りたちが陣取っていて、ゴザに野菜や果物を広げています。その売り手の中には小学生ほどの子どもたちも含まれていました。

「彼らのことを撮りたいな」

インドに着いてそのように思ったのはこれが初めてです。しかし僕には彼らと会話する術がありません。意思疎通を図るアイデアはあったのですが、何の準備もせずに日本を出てきたのです。「後で戻ってこよう」と小さな声で呟き、街の入口へと繋がる階段へ向かいました。

地上から一直線に差し込む光は、暗いトンネルの両端の、コンクリートがはげた赤煉瓦の壁を照らしています。その光の筋に、キラキラとおびただしいホコリが舞っているのは、不快で嫌悪させるというよりはむしろ、何か映画の印象的な一コマを目の前にしたようで、神秘的という表現がわざとらしくもにように思えます。それはきっと、その映画のカットに自分を投影していたからかもしれません。一段一段と階段を登るたびに重い荷物が肩に食い込むのを感じながら、僕はこれから起こるドラマの予感に胸を高鳴らせていったのでした。

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