なぜ書くのか?②

前回の「なぜ書くのか?①」

に続き、早速ではありますが続編(回顧録)です

5.とにかく歴史が嫌いだった学生時代

幼い頃から歴史がとにかく嫌いだった。
エジプトの秘宝展とかに連れて行かれても、
泣きたくなるくらいに嫌だった。
興味が湧かないを通り越す嫌悪にも近い感情がずっとあった。
理由はわからない。

古文も漢文も然り。
過去の書物を読んで何が楽しいのか分からなかった。
他に比べて古文があまりにできないので、
担任に心配されたこともあった。
母親は元古文の高校教師だったのだから、
目を覆いたくなる気持ちだったに違いない。
これには本当に詫びたい気持ち。

今思えば(大学入学後にも思ったけれど)
なんと勿体無いことをしていたんだろうか!
今は過去のものばかり読んでいる。
古典までは手が届いていないけれど、
建築を学ぶことで自然と過去にも目が向くように
なれたのだと思う。
いやはや、思い込みとは恐ろしい。。。

6.歴史に学ぶのは愚者だという愚考

言葉で誰かに伝えなくても、
自分で何かを作ればいい。
少しの音楽と書道に工作が得意だったので、
何かを作ることで表現することは得意だった。
色形音色。
表現に困っていなかったのかもしれない。
過去に興味を持つのは、
未来を作るほどのクリエイティビティが
ない人のやることだ。くらいに考えていたのかも。

賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。
まさに真逆を爆進する、愚者の中の愚者だった。

7.天文学者と宮大工にあこがれた幼少期

幼い頃は天文学者に憧れて宇宙を知りたい頃があった。
NHKの「宇宙船地球号」という番組があり、
毎回、天体の謎に迫り、天体の不思議や星雲の見え方、
宇宙船がスターウォーズの高速移動のような表現で、
タイムスリップして様々な場所に行く。
宇宙は、何もないように見えながらも満たされているように見えたり、
立体的な光線が星座として見え、無数の天体や爆発によるガスが
星雲と呼ばれる美しい様相を見せてくれることに夢中になった。
訳も分からないのに図書館で借りた、相対性理論の本も分かった気になり、
楽しんでいた。

さらに、京都の寺院を修繕する宮大工にも憧れていた。
伝統的な工法や木材の加工、瓦の作り方、刀にも通じる反りの美しさ。
職人のカッコよさに憧れていた。

星の光は何万年も過去からの知らせだし、
宮大工の仕事も歴史上の職人たちからの学びの塊。

要は、過去と歴史の塊のような分野に憧れてていたのに、
その本質を全く理解せずに過ごしていたんだと、
改めてほとほと呆れてしまう。

過去の多くは文章で伝えられてきた。
(壁画や地上絵などの表現ももちろんたくさんありました。)
その記録や知見、知恵と真っ当に接してこなかったことに、
悔いしか残っていないけれど、今は何とか学び直したい。

書いていると記憶が呼び起こされる。
これもまた、書くことの理由になりえるだろう。
回顧版もどんどん書いてみたい。

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