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道教

チンギスハーンは晩年になってから道教に帰依していたと言われています。版図があまりにも大きくなって住んでいる世界が広がり、No.1として知らない内容の物事を決める時や判断に迷った時の規範のようなものを求めたのではないかと思います。

道(TAO)

道は老子の思想で後に仏教と交わり禅(ZEN)へと発展しました。老子には『ワシは馬鹿だと思われているのだ』という自らをわらう度量があります。この孤高の親父はあのバカボンパパに似ています。

『上善水の如し』は訳文では『最上の善は水の様なものだ』これがパパ語では『善のチャンピョンは水のようなものなのだ』となり、分かり易くなります。老子の教えは一言で言うと『無為自然』の勧めです。

人の知恵であれこれ考えて策を弄するのではなく大いなる自然の摂理である『道(TAO)』と息を合わせ、そこから生き方や在り方を見つめ直してみなさいと言っています。道とは自然の摂理、宇宙の根幹、その作用と存在の全てであり、一言では語れません。

ヒントになる言葉は『樸』音読みではハク、訓読みではアラキと読み伐採された人の手が加わっていない木の事です。老子はこの素朴な存在こそが道を体現していると言います。樸はTAOが無から生み出したものであり、何の主張もせず無為自然にそこに存在します。

しかもそれに手を加えれば建築資材や器などあらゆる有効な物へと転じていきます。人はこの無名の木材というあり方から自然の奥深さと誠実さを学ぶ事ができるのではないかという事です。

老子は次の様にも言っています。『私達は大自然の母である道に養ってもらっていてそれを大事にしている。これでいいのだ』一日の終わりに『これでいいのだ』と言いきれれば幸せです。バカボンパパと同じです。

昔の自分に還る

何かを決める時には自然を参考にするといい。身体の動かし方にしても魚の動きを一日中眺めてみるとか、葉っぱが朝日を浴びて動く様子やそよ風を受けて動く様子、雨に打たれている時の動き。それらを飽きることなく観察している内に様々な事を学べます。

その時に大事なのは自分を捨てる事。人間を捨てる事です。頭で生きる人間をやめてしまって、身体で生きる動物に戻る事です。鳥と話す時も、犬や猫に触れる時も魚を素手で捕まえる時も人間を捨てていかないと、彼らは直ぐに逃げてしまいます。

昔は蛙だったかも知れない

彼らが警戒心を解いて仲良く遊んでくれるくらいに人間でなくなる経験をすると感覚として理解できると思います。

時を遡って大昔の自分に還る努力をすると言っていいのかもしれません。何万年、何十万年前の猿だったのか、何だったのか人類の起源にまで遡って、その頃の自分が持っていた何かを感じ取ります。

彼らの動きは本能の素晴らしさを教えてくれます。苦労や努力などしていません。不安も野心も持たず、トラウマやコンプレックスに押しつぶされず、ただ悠然と存在して堂々と命を輝かせ、素直に強く生きています。

棲んでいる世界が広がる時には初めて経験する事が多く、どうしたらいいのか判断に迷う事に何度も直面します。そのように自分が迷子になったと思う時には素直になって原点、出発点に還ればいいと説いています。

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