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メモ書き 記号、言語、徴候

1 記号について
記号については、大きくF.D.ソシュールの理解とC.S.パースの理解がある。

ソシュールは、記号は何かを意味するものと捉える。他方でパースは、それ自身とは別の何かを表すものと捉える。前者は、高度な体系性をもつ「言語」の延長に記号学を構想していた一方で、後者は、何かが何かを表しているという記号現象があればそれは記号論の対象になるとみていた、と指摘される。端的に言えば、パースの記号論がいう記号の方が範囲が広い。

記号の範囲としては、まずはパースのそれを採用する。つまり、何かが、それ自身ではなく、それ以外のものを表しているとみることができるもの、これを記号とし、その過程を記号過程と呼ぶ。

では、ある対象、何かをそれ自身としてはではなく記号である、と捉えることにどのような意義や機能があり、展開が待っているのか。何のために「記号」などというものを考察する必要があるのか。

*どのようなものまでを記号と呼ぶかという「記号の範囲」については、パースの理解を採用する。他方で、言語という記号(ただし、丸山圭三郎の指摘によれば、ソシュールは言葉は記号ではないとしているとする。丸山圭三郎『言葉とは何か』101頁(ちくま学芸文庫,2008))においては、ソシュールが言語と現実との関係について解明した、「シニフィアン」と「シニフィエ」、その結合としての「シーニュ」、「指向対象」(指向対象という切り取り線を入れられる前の「言語外現実」もあるが)という概念区分の問題意識は重要である。と同時に、佐藤信夫『レトリックの意味論』(講談社学術文庫,1996)の指摘を踏まえると、ソシュールの各概念規定(言語の特殊性を強調するため、「言語に先立つ観念はない」(丸山・同書106頁参照)というようなシニフィアンとシニフィエの不可分離性の強調等)や、前提としての一様な連続体たる言語外現実という理解はそのまま採用することはできないと思う。この記事では、記号ないし記号過程の大づかみの理解を主眼とするため、言語に関して上記の概念区分が厳密ではない記述となる。
*佐藤信夫の用語・訳語法では、「シーニュ 記号」「シニフィカション 意味作用」「シニフィアン 記号表現部」「シニフィエ 記号内容部」であり、意味作用と記号作用は同義である(佐藤信夫『記号人間』8頁(大修館書店,1977))。



2 記号と捉えることの意義等
言語は記号である。これを簡単に確認しておく(言語名称目録観的な説明)。

例えば、「リンゴ」はリンゴそのものではない。「リンゴ」は文字、言葉であり、言語外現実であるあの丸くて概ね赤色や薄緑色をして大体片手でつかめて食べると甘酸っぱい味のするあの果物そのものではない。でも、「リンゴ」と書き、それを読めば、あのリンゴを私や他人の心に浮かび上がらすことができる。

「リンゴ」は、これを構成している文字及び文字列の部分部分、つまり長短の線や曲線やその間の空白を表そうとしているのではなく、それとは別の、言語外現実であるあのリンゴそのものを表そうとしている(と一応いえる)。よって、「リンゴ」という言葉は記号である。ここから一気に類推して、およそすべての言葉、言語は記号である、としておく(厳密には違うものがあるがここでは論じない)。



3 表示的意味(denotation ディノテーション)と伴示的意味(conotation コノテーション)
上記で述べたのは、「リンゴ」という言葉、記号の表示的意味の説明である。

他方、もちろん使用されるコンテクストに決定的に依存・左右されるのであるが、「リンゴ」といえば聖書の物語で人がそそのかされて食してしまったものというイメージが纏わりついているし、現代では多くの人がスマホやタブレットなどで使っている物体に刻印されているロゴの印象も強いであろう。これらは、「リンゴ」という言葉から、伴示的意味として発散しているものだということができる。

自分のスマホのかじられたリンゴのロゴを見ながら、「安い時にリンゴの株でも買っておけばよかった」と呟く人がいたら、その人はおそらくアップルという会社の株式購入の機会を逸したことを嘆いているのだろう。この多少ともレトリカルな表現では、「リンゴ」で「アップル社」を伴示的に意味させている。このようにみてみると、伴示的意味があるという点に、記号性はより象徴的に現れる(もちろん、記号性があるゆえに表示的意味が作用することは前述のとおり)。「リンゴの株」という言葉は、どう見ても巨大IT企業に対する細分化された割合的単位たる地位及び権利そのものではないけれども、コンテクストによって「アップル社の株」を表すこともできるからだ。

*「denotation ディノテーション」は外示的意味、一次的意味、明示的意味、「conotation コノテーション」は共示的意味、二次的意味、暗示的意味などと訳される場合もある。
*かつてディノテーションは「外延」、コノテーションは「内包」とほぼ同義語であったが、現代の平均的用語法では、ある言語圏内で普遍的に流通する、辞書に登録されているような語の意味はおおむね外延も内包もひっくるめてディノテーションと呼び、これに対して、辞書による標準的な意味にともなって感じ取られ、それにともなってただよう語感のようなものをコノテーションと呼ぶ場合が多いとされる(佐藤信夫『記号人間』116-120頁(大修館書店,1977))。
*「辞書の手におえない意味をコノテーションと呼ぶのと同じ流儀で、文法の手におえない言語構成をレトリックと呼ぶことができそうだ。そうして、コノテーションとレトリックを、きわめて近い概念として考えることができる」(佐藤・同書120頁)。



4 徴候
シャーロック・ホームズは、女性の依頼者の靴が左右異なること(A)を見てとり、そこから、よほど急いで訪ねてきたこと(B)を、また、鼻すじの両側にあとがのこっていること(A)から、眼鏡を常用する近眼であること(B)を見抜く(コナン・ドイル(延原謙訳)「花婿失踪事件」『シャーロック・ホームズの冒険』105頁(新潮文庫,2011))。

Aというのは単なる見る対象ではなく、観察する対象たる「徴候」である。そこから推論をしてBに至る(ここでの推論の構造という興味深い点は別の機会に論じたい)。AはA以外のBを指し示している。既知たるAから、未知のBをつかむ。

シャーロック・ホームズを記号論者と呼ぶ必要はないが、彼は、対象は記号である、対象を記号とみなすべきである、この対象は記号性を発している、との確信で事件の各事象に立ち向かう。それゆえ彼は、ワトスンが見ていない世界、記号すなわち意味に満ちた世界を見ている。



5 記号性を読み取ることの威力
カルロ・ギンズブルグ教授は述べている。「表面的諸現象を説明してくれる深奥な関係が存在していることを確認するには、そのような関係を直接知ることは不可能であると認めなくてはいけない。現実は不透明ではあるが、それの解読を可能にしてくれるあるポイント ― すなわち、手がかり、徴候 ― がある。こうした考え方は、推測的ないし記号論的パラダイムの核心にあるものだ…」(カルロ・ギンズブルグ「手がかり ― モレルリ,フロイト,シャーロック・ホームズ」ウンベルト・エーコ/トマス・A・シービオク編『三人の記号 デュパン,ホームズ,パース』113[153]頁(東京図書,1990))。

ある対象が記号であること、ある対象を記号であるとみなすこと、記号性を読み取ることができるということは、「広がりがでる」、ということである。豊かな「内包を汲み出す」ことができる、ということである。このことは極めて重要だと思う。ある対象を見る、単に見る、というにとどまらず、「ということは?」と問うこと、その先にあるものを見ようとすること、既知から未知をつかむ可能性を開くことになる。世界は豊饒なる意味に充溢する。


*徴候は、狭義ではパースがいう指標的記号を指すが、広義においては当然、文字・言葉・言語、発話や発言、文書資料を含むと考えてよいと思う。
*とある手がかりは徴候であるが、「あるべき手がかりがない」ということも徴候である。「ホームズの観察は目に見える事実や出来事だけではなくて、その不在にも及ぶ。証拠がないということも、しばしばきわめて意味深いこととみなされる」(マルチェロ・トゥルッツィ「応用社会心理学者としてのシャーロック・ホームズ」ウンベルト・エーコ/トマス・A・シービオク編『三人の記号 デュパン,ホームズ,パース』71[86]頁(東京図書,1990))。



【参考文献】
・佐藤信夫『記号人間』(大修館書店,1977)
・佐藤信夫「記号論をめぐって」『レトリック・記号 etc.』188頁(創知社,1986)
・カルロ・ギンズブルグ(竹山博英訳)「徴候 ― 推論的範例パラダイムの根源」『神話・寓意・徴候』177頁(せりか書房,1988)
・T.A.シービオク/J.ユミカー=シービオク(富山太佳夫訳)『シャーロック・ホームズの記号論』(岩波書店(同時代ライブラリー),1994)
・池上嘉彦「訳者解説(1)」ウンベルト・エーコ『記号論Ⅰ』289頁(講談社学術文庫,2013)
田沼正也「エンジニアのための記号論入門ノート」(Webサイト)




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