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メモ書き M・ポランニー『暗黙知の次元』に寄せて(第Ⅰ章 暗黙知)④原投射、異投射、虚投射

マイケル・ポランニー(高橋勇夫訳)『暗黙知の次元』(ちくま学芸文庫,2003)に必ずしも依拠しない私的メモ書きです。プロジェクション(投射)論での「原投射、異投射、虚投射」を参照しつつ、私見を交えて記述する]



暗黙的認識とは、事物と事物の間に近位項-遠位項という投射的関係を樹立し、それによって世界の意味を把握する過程である。

横山拓/鈴木宏昭「プロジェクションと熟達~マイケル・ポランニーの暗黙的認識の観点から~」日本認知科学会第34回大会発表論文集,2017,164-170[165]頁

*プロジェクション科学における「原投射」「異投射」「虚投射」については同論文166-167頁等参照.
*この分類は必ずしも確立したものではないようであり、再検討の余地があるとされる(鈴木宏昭「プロジェクション科学の展望」創発と相互作用のために)。なお「誤投射」もある。

1 原投射、異投射、虚投射

(1)原投射

手で木製の杖を持ち、軽く握ってみて杖の手触りを感じてみようとする。この場合、手のひらで感じる触感覚が近位項となり、これを遠位項である杖に投射して、杖について知る。これは原投射である。実在するものから知覚が生じ、その同一対象に投射がなされている、という原則的なかたちである。


(2)異投射

手に持った杖の先端で、ある物体、例えばコンクリート地面に触ってみて、それがどのようなものかを知ろうとする場合を考えてみる。知りたい対象はその地面であるから、これが遠位項となる。しかし知覚は、杖を通じた手のひらの触感覚(近位項)に生じ、これを杖ではなく地面(遠位項)に投射して、包括理解が成立する。直接に知覚を促したもの(杖)ではないもの(コンクリート地面)に近位項を投射しているので、これを異投射と呼ぶ。知覚を促したのは実在するものであるが、知覚を促したもの(杖)とは異なる対象(コンクリート地面)に投射がなされている。


(3)虚投射

想像上で、手に持った杖で芝生を触ってみてその感じを知ろうとする、という状況をみてみる。この場合には、その人に何らの外的な知覚情報の入力はなく、脳内で想像しているだけであるから、近位項は外的に物理的に存在しない。また、芝生も同様に想像上の対象である。であるにも関わらず、その人は、手に持った杖で芝生を触ったときの「感じ」を知ることができるし、少なくとも知ったと思うことができる。これが虚投射である。実在するものが存在しないのに知覚(のようなもの)が生じ、これを実在しない対象に投射する、という構造である。



2 虚投射は記憶の想起ではない

重要な点は、虚投射は単に記憶を想起しているのではない、ということである。

ほとんどの人がハサミで紙を切ったことがあると思うが、その同じような事務用のハサミで鉄パイプを切ろうとしたことがある人はまずいないと思う。すなわち、そんな記憶は持ち合わせていない。ところが、想像上で、目の前にある鉄パイプに、蛮勇を振るってハサミで切れ込みを入れようと、いま奮然とこれを実行に移してみたとする(もちろん頭の中で)。するとこれが不思議なことに、その行為によりどのような「感じ」になるか、知ることができる。ハサミが鉄パイプに触れたときに手に感じるであろう感覚、金属同士が鋭利に擦れて生じるであろう音、到底、鉄パイプが切れずにハサミが滑るようにずれていく様子等々。



3 複合投射により対象をつかんでいる

個々の場面において、それが上記の3つの投射のどれであるかということを厳密に分類することの意義はそれほど大きいとは思われない。大事なことは、投射過程、すなわち近位項-遠位項により事象・対象を把握していく様相には、複雑で多様な側面がありえるということを銘記しておくことだと思う。

例えば、原投射と思われるようなものも、見方を変えれば異投射となると指摘されている(原投射というものは厳密には一つもないことになりそうである)。

また、原投射といっても、実は虚投射が混じっているのではないかとも思われる。台所の蛇口から、水が出ていると思って手を突っ込んだら、実は熱いお湯が出ていて、びっくりして手を引っ込めるという経験があるかと思う。二度びっくりするのは、その気づく遅さである。これは、「水である」「水であるはず」という想像した表象を、対象たる流水に投射しているのではないか。そのために、再度の原投射(対象が熱水だったと知る)が成立するのに、タイムラグが生じるためではないかと思われる。

このようにみてみると、3つの投射の概念自体は大変に重要であるが、個々の場面がそのいずれであるかを厳密に特定するよりは、投射の複雑多様な様相をそのまま認めて、複合投射であると大きく捉えておくことが良いように感じる。



4 言葉についての近位項-遠位項

(1)言葉と投射

「言葉は器官」でもある(丸山圭三郎『丸山圭三郎著作集 第Ⅲ巻』6,110,114頁(岩波書店,2014))。職人がなじんだ道具を使うことで対象を知ることができるように、人は整備された言葉の近位項体系で対象を知ることができる。

しかし、言葉についての近位項-遠位項による投射関係は極めて複雑であり、容易に把握し難い。


(2)読むことについての投射関係

紙に「太陽」という文字が書かれていたとする。この場合の投射は、以下のように多段階にわたる。

①紙のシミである太陽
紙から自分がすこし離れていて、何が書かれているのだろうと目を凝らしてその対象を捉えようとしているときには、黒い線で構成された「紙のシミとしての太陽」が文字として遠位項となり、視覚が近位項になるといえる(第1段目の投射)。

②記号としての太陽
「ああ、太陽と書かれているんだ」と分かった瞬間、次に人はその文字の意味をとらえようとするので、今度は、「太陽」という文字がシニフィアン(記号表現)としての近位項となり、表象として浮かぶ概念としての「太陽」という意味がシニフィエ(記号内容)としての遠位項となる(第2段目の投射)。

③実在としての太陽
そしておそらくは同時に、この「シニフィアンとシニフィエが合一した太陽という記号」が、あるいは「太陽のシニフィエ」が、言語外現実の何を指し示しているのか捉えようする意識が生じるであろうから、その場合は、当該記号(ないしシニフィエ)が近位項となり、指向対象の分節線を入れられた言語外現実、あの宇宙空間に浮かびながら核融合反応をしている「実在としての太陽」が遠位項となるであろう(第3段目の投射)。

このように、単純な例であっても投射関係は多段階にわたる。

ここで思い出してみると、遠位項を捉えようとこれに注意が向かっている際には、近位項は意識下にある。よって、「太陽」という文字を読んで、「実在としての太陽」を捉えようとする場合は、その瞬間においては「記号としての太陽」という文字は意識下にある。また、「太陽」という文字を読んだ瞬間には、「実在としての太陽」にまで注意が向かずに、概念としての「太陽のシニフィエ」にだけ注意が向いている場合は、太陽のシニフィアン(記号表現)は意識下にあることなる。また、「太陽という文字は、よく見ると変な形をしているな」とかつぶやきながら、シニフィアン(記号表現)に注意が向かっている際は、視覚で捉えた知覚情報は意識下になる。

このように、言葉の近位項-遠位項関係は、多段階にわたって投射がなされている。また、「太陽」の例における多段階投射は、第1段においては原投射であり、第2段の投射においては異投射+虚投射であり、第3段の投射においては虚投射であると思われるので、複合投射がみられる。


(3)仮構現実ないし虚構世界への投射

「太陽」は実在する。では、実在しない「青い太陽」を仮定し、この文字を読んだ場合の投射を考えてみたい。

この場合は、第二段目の投射どまりであるという見方もありうる。「青い太陽」というシニフィアンという近位項を、その概念であるシニフィエという遠位項に投射して意味をつかむ、という投射関係は理解しやすい。

ただ、「青い太陽」という言葉(=記号)を近位項として、これを投射する先があるのではと考えてみることもできるだろう。「青い太陽」は実在しない全くの虚構であるとしても、この場合、私見では「虚構世界」とでも呼ぶべき投射先があるような気がする(*1,*2)。三段目の投射関係があるとした方が、「青い太陽」の内包は豊饒化すると思われ、その方が充実した意味世界が出現し、人の想像力が及ぶ時間的空間的範囲が広がり、自由を感じる。もっとも、仮構現実ないし虚構世界を作り出す「言葉」という人間の抜き難き用具により、かえって人間が縛られるという暗転の側面を見落とすことはできないが。

私たちの世界認識は、こうした投射関係が複雑に交差しつつ、瞬間瞬間に入れ替わりながら織り成されるようにして形成されているようである。


*1(仮の整理として)現実と虚構を分ける。現実は実相としては仮現実であるが、通常言われる現実と仮構現実を含む。他方、虚構はフィクションであるが、仮構現実とはグラデーションでつながっている。
*2「小説とは、何よりもまず、ひとつの「世界」に関するものなのです。何かを物語るためには、作者はまず、世界を生み出す創造神のようなものになる必要があります。そして、その世界は、作者が完全な自信をもってそのなかを動き回れるような、可能な限り精密な世界でなくてはなりません」(ウンベルト・エーコ(和田忠彦/小久保真理江 訳)『ウンベルト・エーコの小説講座』21頁(筑摩書房,2017).





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