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記憶の仕方が文章力

今朝バスで、ぼくは「美」と出逢った。

彼女は2両バスの連結部分を挟んでぼくの向かい側に座った。年齢は20歳くらいだろうか。たぶんぼくより若い。ブロンドの髪を後ろで結んでいるが、くせ毛のため少しばかり髪が遊んでいる。パッチリした水色の目。小さめの耳にはiPhoneの白いイヤホン。窓を見やる彼女の視線。首には桃色のスヌードを下げているが、気温5度だというのにデコルテは全開だ。横を向いているため、彼女の首筋が浮いてVラインを形成している。そのラインを横切る金色の細くてタイトな首飾りが鎖骨の間に鎮座する。

ぼくはずっと見ていた。いや、見ていたというよりは目を離すことができなかった。いや、できなかったというよりは、たかだか「照れ」という理由で自ら目を離す行為が馬鹿らしかった。だって、そこに「美」があったから。25年生きてきて、そんな経験は過去に一度しかない。レオナルド・ダ・ヴィンチの「ほつれ髪の女」と出会って以来だ。


2012年「ほつれ髪の女」が看板作品のダヴィンチ展が東京で開催された。史上最高の天才の作品とは、はて、一体どんなものか、と当時浪人中だったがお構いなしに美術館に向かった。それが、この作品、意外と小さい。そして、ツートンカラーのため見えにくい。せっかく来たのだからと、人を押し分けへしわけ、真正面にやってきた。その時だった。

突然視界が真っ白になり、その空間にぼくと「ほつれ髪の女」が佇んでいた。

人込みも、喧噪も、他の作品も目に映らない。眩い光だけが包み込んだ空間。そこに自分と「女」。彼女は特に喋るわけではない。あの絵の通り、右下に目は伏し、口角を上げ閉じた口。ただ、ただ何かを問われた気がする。7年経った今もそれがなんだかわからない。

この瞬間空間がどれだけ続いたのかも定かではないが、気が付くと元の情景に戻っていた。ただ、息は切れていた。たった今起きたことにドギマギしていた。「なんで?皆見えてなかったの!?」と周囲の日常に困惑を覚えた。ぼくはその時の映像を必死に記憶しようと起きたことを反芻した。

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でもわからない。あの時何と問いかけられたのかわからない。きっととても大事な事だろうから未来で思い出せるようにとその場でコピーを買った。エストニアに移住するときも日本から持ってきており、今もソファの横でほほ笑んでいる。

そういえば、今朝出逢った「美」は「ほつれ髪の女」そのものだったような気もする。あの時ぼくは盗撮したい欲に駆られていた。もちろん、していない。不適切であり、場合によっては犯罪だ。だけど、たぶんあの時写真を撮っていれば、単なる街で見かけた一人の美女で終わっていただろう。記憶に留めておこうと、なるべく細部まで頭の中で描写することはなかったはずだ。

そんなこんなを140字でツイートしたら、友人から褒められた。

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この友人は軽く人を褒めて乗せるタイプなので、安易に図に乗ってはいられないのだが、もし「文才がある。」と本当に思わしめたのなら、それはあの時写真を撮らなかったからだと思う。撮っていたら忘れているか、Twitterに描写することなく、残念な感想と共に上げ、それって倫理的にどうなの?、と消していただろう。

君はミル(見る・観る・看る・診る・見留)という行為を本当に行っているか?対象と一対一で向き合っているか?対象に自分を正面から見せているか?記録は頭の中のメモリー(思い出)か、それとも外部のメモリーのどちらにあるのか?

今朝「美」と出逢って「ほつれ髪の女」を改めてメモリーから映像として呼び起こした。あの時問われたことってもしかしたらこういうことなのかな。ただ、あの時の彼女の様態、ほつれ髪に、横顔、デコルテが「ほつれ髪の女」を彷彿させたこと、ぼくの脳内メモリーに「ほつれ髪の女」が生きていること、そして、ぼくも彼女もスマホに目線を奪われていなかったことは確かだ。

コーヒーをご馳走してください! ありがとうございます!