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「私は正しい!」と主張する時、結構正しくない説

ちょっとnoteの練習がてら。

よく議論などしていると、お互いに「私は正しい!」と主張することの応酬というのが起こりがちなんですが、よくよく考えるとよくわからないなと。

もし、口喧嘩などで相手を言い負かしたいなら、自分から自説の正しさを主張するのは、悪手な気がします。口喧嘩最強トーナメントの古代ギリシャ代表ソクラテスは、相手に「なんでなんで?」と質問をしていって、答えられなくなったところに「俺も答えられない。でも、それを俺は知っているのだ」というひどめのカウンター戦法を用いて、数々の戦い(パーティ)にいっては誰彼かまわず口喧嘩しかけて勝利を納めていきました。

同じくインド代表、ナーガールジュナは「プラサンガ論法」と呼ばれる相手を矛盾に追い込むスタイルで、大乗仏教の一大派閥をつくりあげました。古代から続く口喧嘩の必勝パターンです。その様子を弟子筋の維摩経などから観察すると、菩薩が如来を口喧嘩でばったばったと切り刻む様子がほとんどプラトンの「狂宴」とかぶるのです。

自分が正しい!と主張して、自説の追加情報を加えれば加えるほど、矛盾するかもしれないという可能性が増えます。仮に増えないとしても、相手にその隙を与える必要がなぜあるのか。そういうとき、きっとその人は本気で口喧嘩に勝とうと思ってないんでしょう。勝つための最善手を取ろうと思っているわけではないのです。口喧嘩に勝ちたいのであれば、じっと話を引き出して、矛盾点を待つのが正着になることのほうが多いです。

でも、議論の目的は別に口喧嘩に勝つだけではありません。たとえば、「相手に行動を変えてもらいたい」というのも1つの議論の目的です。

この目的に対して戦略を立てるのであれば、相手のより根源的な欲求と自分の立論が整合していて、相手の主張する手段よりも上等だと納得してもらう必要があります。そのための最善手は、けして相手に自分の主張を述べることじゃなくて、相手の根源的な要求を捉えて、できれば自然と自分の主張と同じくなるように「認知の歪み」をはずしていき、気がつかせるという手法が強いです。。

自分で、あーこの主張の方が正しいなと納得してもらえば、他人にあーだこーだ言われるよりも納得感を持って行動を変容してもらえるはずだからです。

他にもいろいろ手段はあります。議論とは別の圧力を使って、相手に強制するという方法です。たとえば、裁判などは、別に相手を納得させるための手法ではなく、公平な第三者に対してプレゼンし、その人の権力を使って相手に強制させるための議論です。けっして、論争相手を言い負かす必要がないのです。

どちらのパターンも、相手の話を深く聞き、いろいろと引き出すというのがうまくいきそうなのですが、「わたしは正しい!」と主張するのは、何故なのでしょう。明らかな悪手を選び続ける本当の意味です。

わたしにはそれが、「論敵がアイデンティティを傷つけているから」であるように見えています。相手の論や持論が自分の大事なものと密結合していて、そうであるゆえに、アイデンティティに触れてしまうというのはしばしば起こりそうです。

そのため、攻撃的・回避的な手段として「ロジック」を使おうとして、互いに近視眼的になって、論争がどんどんとエスカレーションしていきます。議論の中身よりもむしろ相手の態度や言動が気に入らないという思いが強くなって、どんどんとロジカルじゃない行動を取るようになります。

もし、ロジカルに目的を果たしたいのであれば、「自説を主張する」よりも話を聞き、論点を整理するほうが適切だと気がつけるはずだからです。

なので、「わたしは正しい!」と主張したい時、きっと何かロジカルじゃない要因があなた/わたしにそれをさせているだということを覚えておくと、なにかのときにクールダウンできるんじゃないでしょうか。

アンガーマネージメントの基本は、「自分は今怒ってしまっている」と気がつくことです。冷静な議論ができているはずというのは、思い込みにすぎません。正しさなんてどうでもいいじゃないですか。本当は。

そうではなくて、自分が何を本当はしたいのか。何を相手にしてもらいたいのか。それを冷静に見極めることができるための、フックとして、この説を頭の中に入れておくと、より価値のある議論ができるかもしれません。




エンジニアリングと組織の関係について、より多くのビジネスパーソンに知っていただきたいという思いで投稿しております!