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「人の在り方」の提案がされない時代

「ファッションとは、世界の捉え方である。」

ファッション哲学者・井上雅人氏の言葉に、私も深く共感した。

ファッションの流行はその時代のデザイナーから生み出される世界観のようなモノと思われがちだが、もっと奥深いものだ。政治経済やその他の文化と比べるとまだまだ軽くみられがちだが、時代の流れを知る方法として非常にわかりやすく、考察のしがいがある。

私はWeb界隈の仕事を生業としているが文化服装卒なので、なにかとファッションと結びつけて思考するクセがついている。中世の絵画を観ればドレスのデザインから時代背景を探ろうとするし、映画は音楽より衣装の印象が強く残る。

服のシルエットや色の流行が変わってきたなと感じると、なぜそうなったのか考える。そうすると一見対角にありそうなITや経済の流れと必ずリンクする。

色は経済情勢を、買い物の仕方は思想を示しているように思うが...

グレーがかったくすみトーンのカラーが長らく流行しているのは、不安な世界情勢と重なる。

イエベ・ブルベのように自分に合う色をみつけるパソーナルカラーや、質問に答えて商品を購入するパーソナル型商品が急速に増えているのは、人は違って当たり前という考え方が主流(マジョリティ)になったことを示している。

だが歴史的に見てみるとどうだろう。着物を脱いで洋服になったくらいの大きな変化は今後訪れるだろうか?

流行するカラーや素材は毎年変わるだろうが、意識しないと気がつかない小さな変化の繰り返しということは、私たちの思想も無意識に同じ方向に流されてしまっているのでは?とつい考えてしまう。

「人の在り方」を、ファッションからは感じにくい時代になってきた

社会が安定すると、衣服の変化はゆるやかになると言われている。今まさに、そんな安定した中に生きていることになる。

着たい服を着て派手な格好をしても個性と言われるが、社会的に受け入れられているかは別問題だろう。髪の毛の色で不快感と言われることもあるし、制服反発運動なんていうのは滅多に起こらない。

大きな変化がないと押さえ込んだり排除する流れも起きにくい。「自分で判断しないことは、快感である」と脳が覚えてしまったのかもしれない。

ITやIOTの急速な発達で、食事や睡眠、運動の健康情報がデータ化されるのが当たり前になった。

「お酒を飲みすぎている」「もっと寝たほうがいい」「タバコを減らすべき」というデータに合わせて広告が出され、無意識に買い物をし、会社では評価もされる。となれば、わたしたちは無意識的に健康ゾーンの枠におさまろうとする。

気がつかないうちに、周りと同じ行動をとらされる社会構造になっているのではないか。

私たちはどこへ流されていくのだろう。自分の意図で流れているなら良いかもしれない。だが、流されていることすら気がつかない。気がついたときには自分の力では泳げなくなっていた、とならないように、自分自身の在り方は常に考えていたい。



注: 井上雅人「ファッションの哲学」(ミネルヴァ書房)


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