老いのヴェクトル

実体として存在するのは生産し消費し創造し破壊する「男たち」ばかりである。そうではなく、この「実体」的思考の所産としての「男性」から遠ざかってゆくヴェクトルのことを「女性」と呼んでみたいのである。それは実体としての性ではなく、遠心力としての性であるといってもよい。「女性」というこの遠心力としての性が実体化されるとき、女性は「男」となり、「子供」と化すのである。「女性」とは一個の性ではない。それは遠ざかる力である。労働から生産から創造から遠ざかる力である。彼女たちの作品に共通する産みの苦しみの不在は賞賛されてよい。それらは誕生するのではなくいつのまにかかたわらにたたずみ、けっして捕獲しえない力としてある。彼女らの作品は、芸術(=男)に押しつけがましく死を宣告するのではなく、芸術(=男)にやさしく死を許してくれる、そのような残酷さである。そのような残酷さの放つ美しさ(こそが女性の美しさ)なのである。

椹木野衣『増補 シミュレーショニズム ハウスミュージックと盗用芸術』(ちくま学芸文庫)

2001年。


80年代のあの感じ。価値や文脈の壊れた感じ、こどもの世界。それまでの歴史を体内に取り込み内面化したはずのものは、それをまもり受け継ぐ身体そのもののつくりが変わってしまい、以前の身体や機能を用いた見つめ方や扱い方ではアクセス不可能になってしまった。というイメージかもしれない。戦後から80年、80年から現在までというひとつの中間点を見つけ、ねじれや断絶を見ることができる、ともいう。自分が80年ちょうどに生まれたから自然に意識するのだろう、この時代を過ぎた歴史として見る、素材にする、ものに触れることが少し増えたような気がする。

誕生日を過ぎて、あきらかに、自分の身体のなかに閉じていく力、老いる力や方向性を感じるようになった。もっとゆるやかに来るかと思っていたけど、崖のように来る。それで、「実体としての性ではなく、遠心力としての性」という言葉にしっくりくるものがすごくあったため付箋をつけた。約20年前の言葉で、その言葉は10年、20年、30年ほど前の環境や体験から生み出されたものなんだと思う。

女性、男性、という。自分がある構造の後押しをしてきたことがらにやっと気づいて、あっ、と思うことは多く、気づきもしていないことも今きっとかなり多い。この後ろめたさをいつも何かしら引き摺ってはいる、と思う。自分が体験してきた環境、自ずとふるまってきたふるまいのその根拠、それを自分は何と照らし合わせて選択、判断して生き延びてきたのだったかなあ、と思う。思っては忙しさに流される。

自分の身体と生きている感覚、自分の身体の力に流されている感覚は自分にはある。自分なりに。これからは私は老いのヴェクトルを意識していくことになるんだろうと思う。

どうしてまだ、自分の身体や自分ごとを満たすことばかりを生と考えたがるのだろう?何の必要があって、この価値観で生き延びると私は選択したのだろう?苦し紛れにつくりだしたこの価値観こそ、今ここにいる人を苦しめ自分が苦しむことの元凶になっているということ。よくあることで、自分がそのなかにいるからよく見えないというのもまた。どうしたらいいのかなあー。と思う前に、知るだけで解決することは山ほどあるのだけれど。ただ、そのことと、自分の生まれた年代、それ以前のことを読むことは遠く離れてはいないはず。何を、どのように、見もせずに丸めて捨てた80年代で、何に、どのように怨まれた90年代だったかな。


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