とみいえひろこ

短歌的。かばん・cahiers・舟の会

とみいえひろこ

短歌的。かばん・cahiers・舟の会

マガジン

最近の記事

母の眺める窓を  中井スピカ『ネクタリン』(本阿弥書店)

ネクタリン皮ごと切って薄闇のテーブルで食む移動の朝だ 私のこと忘れてほしい、思いっきり。母の眺める窓を見ていた 無意識の嘘をつくこと夕暮れは一人で崖を見下ろしている 緩慢な復讐として冬空は漆黒の穴を広げてゆくか 消息をふっつりこのまま絶てそうだコウモリ埋め尽くしてく夕空 かなたまで来てしまったね夕風は路地から路地へ猫を流れる 体温を忘れあってはそれぞれに流れる川の右岸で暮らす お互いのために、いえ、私のために車窓は母を置き去りにする 生きているけれど会わずに過

      • 「柊と南天」3号

        その燭を人は忘れる けれどいい、誰も知らない夜明けが明ける くらき海ほたる烏賊あふれ口数のすくなき街と遠くつりあう 中田明子/月と水母 暖かく緩むあなたの隣から動きたくない白梅の散る はじめての息入りゆき音になり分娩室の声一つ増ゆ 中島奈美/欲張りの生命力 いつまでも待つわだなんて車窓にはたくさんの人流れているも 感染者の増えた夕べに駅ビルの花屋で紅い花を買いおり 竹内亮/風切る音 可憐なるクシャミで済ます人がいて そのやり方を未だ知らない とびきりの山場

        • むかしの自分の病いに遭った

          むかしの自分の病いに遭った。 やあ、こんなところで、こんなときに。またいつ襲われるかというびくびくした気持ちはあって、片時もあなたを忘れることはないけれど、時が経って、わたしといたときとはずいぶん姿が違うように見える。 姿が見えるのは、病いの種がそのひとの身体を通して病いとして表れているからだ。どこともいえず何か胡散臭くて苦手なひとだなあと思った。けれどこれからすこしの期間彼と付き合わなければならない。 病いは闇のような生き方をする、と思う。病いの種の違いによってそれぞ

        母の眺める窓を  中井スピカ『ネクタリン』(本阿弥書店)

        マガジン

        • 前号評ノート
          10本

        記事

          今年は思いのほか秋が

          今年は思いのほか秋が長い。わたしは夫がふたりいる生活をしているのだが、この長い秋のあいだに夫ふたりは話し合いをつづけ、ある取り決めをしていたらしい。この秋が終わる頃に家族三人で動物を飼って暮らすという取り決めだ。ふたりから話を聞いたときには、どの動物を飼うかということや、段取りなどすべて夫ふたりで済ませていた。 飼う前に一度だけ、夫たちに連れられてその動物に会いに行った。金色の毛をもつ、小さな、美しいいきものだった。手続きの関係で、秋が終わる頃までこの一度しか会う機会がない

          今年は思いのほか秋が

          2020.11.04

          排泄の場所を覚えてほしく、犬のサークルを買った。きゅんきゅん鳴くので切なすぎる。犬と人間と一緒に暮らすということはこんなふうな暮らしていき方でいいのかよく分からない。犬にとってこれでよかったのか、これからも彼が楽しく幸せに過ごせるのかぜんぜんよくわからない。楽しく幸せに、がいいのかどうかということも。野性でもって生きていく生き方とはぜんぜん違う生き方。 犬との関係は主従の関係につきるという。散歩の仕方にしても何にしても、つねにどちらが主かというところを抑えないといけないそう

          2020.10.31

          うっとりと、思い出すように懐かしむように穏やかに、背をぴんとさせて耳を立てて、また遠くをみている。なにか体内に感覚を鈍麻させる薬でも入っていてぼんやりしてしまったような眼をして。 小さな柴犬と暮らすことになった。こんなに絶望を、無意味な時間を、味わわせてしまうのならやめておけばよかった。一緒にいると決めなければよかった、関係ない同士でいることに決めればよかった。こんなに狭いつまらないエリアで誰かの暇つぶしの道具のために制限まみれの生活をしなければいけないのなら、そうやって死

          背のさむいひとのねむり

          ぜんたいをススキになって見ていたと気付く つよめに肩をたたかれ 投げ出され世界の外で聴いていた 撫でられ何者にもならず 数日を葡萄の粒のおのおのの暗さと過ごす 今日は雨ふり 背のさむいひとのねむりを見ていると、音色のうつくしい薄い月 金属に似た身体ひとつを得てゆく秋立つときの寂しさの空 まずわたしを助けてほしい 膝に手を置いて季節をすっかり失くす 「知らない」と言ったきりあなたのねむり 知らないということのしんどさ いつまでねむるつもりだろうか 寝返りの腕を見な

          背のさむいひとのねむり

          2020.10.26

          引っ越した先はビジネス街に近く、すべてのものがすこしずつ高くつき、すこしずつ手間をかける余力があるでしょうという仕組みになっている。環境が変わるとあっさり変わるものだなと思ったことがいくつもあった。まだぜんぜん慣れないし、今夜から犬と一緒に暮らすことになるのも不思議。 何日か長く一緒にいる日を過ごして、今は彼にとって、自分は彼の「だめ」の部分を見る役で、夫は彼が飛び越えようとするときにそこにいて見る役なのかと思った。 家のつくりがそうなのか、乾燥が激しすぎて数日咳き込んで

          2020.10.21

          あさってが引っ越しで、明日の午後がインターネットの工事。明日の午前中に入稿がひとつ。いろいろな心配ごと。 箱とほこりとバラバラに置かれたもの、ぐちゃぐちゃの空間のなかで居残りのように作業をしている。不安要素がいくつか、それにまつわる細かな不安要素がいくつか。ひとつ進んで見えてきたら新しい不安。不安で不安で不安なのは40歳だからなのかとも思う。 ものに取り囲まれながら、ともかくも作業さえしていれば前に進むと感じられるので落ち着く。おなかがすいたら外に何か買いに行って、部屋で

          李良枝『由煕(ユヒ)/ナビ・タリョン』

          これも声の話だった。 あるときは聞きそびれてしまい、あるときは声になる前の声を聞きとってしまい自分のものにしてしまう。いつも、誰もがそう。声を聴くのに失敗しつづけ、ねじれてどうにもならないほど絡まりつづけてきた声の記憶にもがく身ぶりの話だった。 彼女がもがいて空を掻く文字は、外側にあった文字だった。外側にいるから聴き取れるという構図が、状況が、この世界にはたくさんある。外側にいるもの、自分にはどこにも居場所がないと知っているもの、汲みつくせないほど深い孤独を抱えてい

          李良枝『由煕(ユヒ)/ナビ・タリョン』

          2020.10.08 つづき

          写真を選ぶ作業。こちらが飲まれてしまう写真、見つけにくい写真、背筋の伸びる写真、ひとりひとりぜんぜん違う。 すっごく惹かれる写真に会った。 ふわっと自分の身体の内側(内側のどこかということが、知識がなくてわからない)が浮くような、自分の重たさを感じた写真があった。このひとはかなり基礎を鍛えているのだろう、つねにあらゆる美を意識しているのだろう、内面の根を感じつづけ、動かし、深めているのだろう、と分かる。分かる気がする。自分に知識があればきっともっと分かる。なんて自由でしな

          2020.10.08 つづき

          2020.10.08

          何年もかかってしまった。もうすでに遅く、ある部分はもう力が出ずに息絶えてしまったかもしれないし、もっと悪くなってしまうかもしれない。でも、やっぱりはじめから彼が言っていたふたつのことばに戻るしかなかったのだった。ただ、その「もっと悪く」とはこちら側の世界にとっての「もっと悪く」だ。常に。 そして、ここからはきっと、独特の注意が必要になるんだと思った。一方向にとっての「良い」状態になってはいけない、ということ、すべての方向に向けて不満足な状態でいられるかを気にかけること、良く

          2020.10.03

          それは主を失い、疲れ果てて孤独の時間の円環のなかを死ねずにいる髪の毛のかたまりのように見えた。理不尽に割り当てられたひとりの人間とずっと運命をともにし、ものいわずその人間と社会の境界にさらされ、埃やあぶら、温度を取り込み自らにまとわりつけ、重たく複雑に絡まり過ぎて自分がどこまでなのか命がどこまでなのか分からなくなった、髪の毛の塊。 ここにこんな大きなサイズの髪の毛が置かれてある意味が分からなくて頭のなかがフリーズする。暗闇のなかで眺め、手元の地図と自分の位置を確認しなおす。

          2020.09.30

          ・時間ができて、時間ができたらwebデザインのことやりたいなと思っていたしほかのこともやりたいと思っていたことを思い出す。本屋に行こうと思いながらまた寝てしまう。時間ができたらこれから自分は仕事どうやっていったらいいのだろうという不安がわっと来る。今日のように寝ておきたらやることができていたり、とりあえず目の前のことで埋めてしまう。最近あんまりにも寝てしまう。「40代 女性 眠い」で検索してしまう。 ・マツキヨの目薬のボトルが青くてよかった。 ・ヨーグルトを食べながらコー

          彼の声がやぶれて、

          彼の声がやぶれて、一瞬にして冷たく、遠くなり、近くなった。さわっていた古い実をそのへんに置き、わたしは膝に手をおいて聞く。聞くときはからだのうしろを毛羽立たせる。あなたは感覚の話をつづける。わたしがこのひとの話を聞くのが嫌なのは聞いていると自分の内がわにあるものがむくむくと膨らんできて自分を内から圧迫するからだ。 苦しい。話を聞くどころではなくなってしまう、こんなに耳をすまそうとしているのに。こんなときでさえ、こんなときほど、わたしは自分のことばかりなんだと、嫌になる。この

          彼の声がやぶれて、