シアンガーデン(少年王者舘)

シアン、CYANは思案にも通じて、しあんのにわ。シアンガーデンを前景に・背景に、劇が起こる。

場所や時間、人から忘れられたようなアパートがある。そこに棲む人たちの、ここから見たら〈子供の遊び〉のような(何も消費しない、何も生産しない、場所や時間がいらない、外界とのつながりがねじれていて、とても不思議な)営みがあり、観客はだんだんと〈忘れられたような〉その感覚が生む現実や必死さや狂いや悲しさに出会う。ひどすぎて忘れてしまいたいような、または自分が忘れられている恐怖のような、または自分が愚かに忘れてしまった何かのようなそれに、つよくとらえられる。それがまだここに、のこっている庭がある。


この芝居は『IMAJU』の特集「相模原やまゆり園障碍者大虐殺事件を生きる」を読んでいたときに観に行ったもので、このことと通じることは、ストレートにこの芝居でも表現されている。


めくらで年老いていて小さく弱い幼女のような女は、象徴であったりコンセントやタイムマシンの役割であったりした。なんとなく恋慕われる存在であり、だからこそ憎しみや蔑みを思い出させそうでもある、「予感」のような存在だった。または「過去」のような。この女を私自身の原罪だとして潰す。このようなことをわたしはこの世界で繰り返していると思う。


この芝居のどこか急いてつくられたような荒っぽさやまっすぐさ。今もこちらにその熱がまだ残っているから、あるメッセージ性をつよめに受け取ったのだろう。



とはべつに、


わたしは、どうしてか、最後のほうのシーンに登場人物たちが踊るときの、全員が片耳をおさえている場面が妙に目に焼き付いたままだ。

ひとりひとりの深い傷がそのひとの歩く道すじによって滑稽な感じにふくらみ、そのひとのキャラクターになり、思想になり、長い時間をかけてそれはもう目に見えるくらいのあるこだわり、歪みをつくりだす。

そこに誰もかんたんに触れることはしてはならない。

かんたんに触れない。そのルールが染み渡りながらふいに優しさや暴力が噴き出す庭で、歪んだおのれの祈りほど叶えられたさの熱を帯び、外界との境界であり自らの触角である耳を熱くするのだろうか、熱を冷やすために手を当てていないといけない。全員が片耳をおさえている姿には、それがそのひと特有のこだわりの格好であり、本人以外にはその姿をちょっと妙に感じる、みたいな印象がまといついて、理屈づけてどうといえないところで、自分の心に長くとどまっている。

雨に当たる耳を守るためかも、耳をすますためかもしれない、不思議な感じ。それでいてきれいな所作や静謐な必死さに惹かれる感じ。



昔、社会的に大きなニュースになった残虐な事件があった時期に、近所の公園で動物が殺されるということがあり、そのことを覚えている。耳のことを思っていたら、だんだんこのこととつながってきた。


ある話を聞いて、その話の意味が分かること、何が起こっているかを頭で理解できるということは、少なくとも、自分がそれをする可能性があることだと思っている。それをしたのはタイミングさえそろっていれば自分だったかもしれないということ。受け入れることが難しいことがあり、確かめたいと感じる。動物を殺した心理は、そういったところからくるのだろうかとそのときに思ったことも。


自分のもつ力があり、気付けばそこかしこになんらかの力があり、その力の大きさや方向性を自分でどうにかできない、かもしれない。

一滴、熱い雨が降る。熱を確かめる。耳をふと守るような仕草をする。何となく大丈夫と感じられ、まだ夢から覚めない。または覚めている、覚めても大丈夫と感じる。この仕草は長い間、わたしが力を現実的に使わないためのお守りになる。



たまたま自分はこのシーンが何となく気になっただけで、上に書いたことも何となく辻褄を合わせたくて書いたことだ。

耳と雨と女の台詞、男の怒り。忘れられたこと。庭に埋めたこと。理屈で割り切れないものがあり、言い表せない時間が流れ。どうしようもない何か、何にもならない何かを暗い席で居合わせたもの同士で座って感じている。芝居やものを観ることやつくることには、ただこのことにのみ価値があるのだと思う。「価値」が欲しいのなら。あとからべたべた言ったり問いを深めることは、おまけのおまけに過ぎない。そのおまけを大事にしたがるけれど、それはわたしがその瞬間にたしかに覚醒した何かをすぐに忘れるからだ。





〈シアンガーデン〉少年王者舘(作:虎馬鯨  演出:天野天街 於AI・HALL)



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