『箱庭弁当』劇団態変(伊丹アイホール)

劇団態変の芝居はわたしにとっては、電車に乗ってひとりで身体を見に行くだけの時間をもつ、という感じ。

身体を、自分が殺してきたものを観る。全身をぴったり包むタイツは、身体が、身体の内部の様子がよく見える。


わたしもその何かの一部としていつかばらばらに地面におかれ、時間をかけて人型になり、アイデンティティのようなものを身につけた。肌が触れるものを感じ、痛みや痒みや不快さ、心地よさなどを感じるのは、肌というものだけが〈内部〉ではないから。いつも〈外部〉と触れ、外部の刺激を受け取る役割を担う肌も、何かからばらばらになる前は〈内部〉だった。切断されたその切断面を肌と呼ぶようになり、肌の内におさまったものを道連れにして、切断面で区切られた一個のものをわたしと呼ぶようになってしまった。肌という切断面は外部にさらされていつも傷ついてもいる。風にこすられ、磨き上げられ、何にどうさらされてきたかによってひとつの独特のかたちや状態をもつようになる。

わたしは何かの内部だった。内部のある一部を風にさらしている、そういう状態にいる。

この内部の小さな一部に意味をもたせたり、完結させようとすることに、また、別の似た内部のものたちと足並みをそろえることに生活を費やすことに、何の意味があるというのだろう?このことに価値をおくことが生きやすいという状態にいるのは、ほんとうに生きにくいし、いったい自分は何をやっているんだろうというむなしさを感じる。


舞台に「いる」(立つ、ではなく)ものたちの身体は、普段自分の見慣れている姿とちがう。身のさらされかたがちがう。切断面の表情や、影の落とし方、一個のものとしての身体の使い方、外部との折り合いの付け方がぜんぜん、わたしとちがう。切断面が触れてきた歴史がちがう。自分が使っていない、思ってもみなかった自分の身体の機能や意味や価値のようなもの。それらは普段自分が「不便」という言葉でくくっているもので、集団生活のなかでの生きやすさのために殺してきたもの。イレギュラーな切断面を抱えるゆえ規格外となり、自分だけの生存方法を見つけないといけないもの。ほんとうは誰もが自分だけの生存方法を見つけないといけないのだけど、規格に合っていればとりあえずは生きやすい。



トイレの掃除をしていたとき、腕の上のほう、肩に近いところ、普段かかないところに汗をかいていることに気付いた。自分の身体の機能も表情も、器官、部分同士の関係についてもわたしはほとんど何もわかっていない。わかっていない、ということから来る不安や、とりあえず生きやすくあるという「手段」に大きく寄った身のさらし方に感じる何かむなしさは、わたしにはとても親しい。親しいのにわかっていない。


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