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受け流すという美徳

受け流すことは、流すこと、忘れることとは少し違う。一旦受け取り考える。それから流すということを選択する。
私は受け流すことが苦手だ。一旦私の思考回路を通過すると、「流す」という柔軟な方法でアウトプットすることが非常に難しい。世の中ではきっとこれを「不器用」と呼ぶ。

信頼を置ける同性の友人となら、受ける時点で不快に思うことが少ない。しかしながら、特に親しくない知り合い、異性、家族、パートナー、目上の人、お客さん等々との間に起こるちょっとした不快感、これを簡単に受け流せない。直接噛みつきはしないものの、どちらに非があったのかということをちまちまと気が済むまで考える。適当に人のせいにしたり、なかったことにはできない。

先日母にちょっとした愚痴を吐いたら、「そんなの受け流したら」と一蹴された。
「そんなことで鬱々している方が時間の無駄でしょ」と、いやはや全くその通りなんですけど。
だけれど、厄介な私は、自分がそれでも受け流さない理由を一生懸命考える。(だからこれを書いている)
私は、ちょっと不快なこと私は、アートとは普段気づかないことに目を向けて掘り出すことだと解釈しているから、なるべく「受け流さない」ことがアーティストとしての仕事だと思っている。寧ろ、自分から問題要素を受け取りに行くくらいの意気込みである。
日常の小さな出来事は、受け流していた方がそれこそ「器用」なのかもしれないけれど、社会という大きな枠組みの中で、受け流すことが当たり前になってしまったら、それこそ独裁国家を生み出す原因となってしまう。
そう、だから私は「受け流さない!受け流さないことが私のポリシーなんだ!」と意地を張って見せるのだけれど。

ただし、「受け流さない」意義を認識した上で、やはり「受け流す」という美徳を羨ましく思う。ちょっとした日常のノイズや振動などは気には留めず、楽観的に朗らかでいた方が健康的である。

適当に受け流しながら、肝心なところではしっかり受け止めて行動する。
そんな理想像を描きながら、そろそろ下界に戻ります。

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