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恩人、武田鉄矢 in LIVE A FOCUS


まえがき)ハンフィクション

これから、ここ"LIVE A FOCUS"に記していくのは、
界(KAI:かい)を主人公とする物語。
ハンフィクション。

ノンフィクションと呼ぶには、当時の勘違い、現在の記憶違いが混じり、
必ずしも真実性は保証できない。

フィクションと呼ぶには、呼び起こされるのが勘違い、記憶違いでも、
界の人生に刻まれているのは間違いのない事実。

だからハン(半)フィクションとする。

本来なら、ひ録:わらの手の"NO WAY TICKET"に載せるべきだろう。
ただ何となく、この事を書かないで"LIVE A FOCUS"を進めるべきではない。
そう思えたので、このまま続ける。

寅さん特集と武田鉄矢

昭和52年、1977年の2月か3月に、
界は一度だけ武田鉄矢(敬称略)に会っている。
界は当時、テレビ局の下請けの小間使いのようなバイトをしていた。

その日は、寅さん映画を見に来る客のひとり、と言うサクラだった。
銀座松竹セントラル?の階段を上るシーンに映っておしまい。
そんな仕事だった。

番組の内容は、時々寅さん映画の場面場面を観ながら、
女性アシスタントが武田鉄矢に語りかけ、武田鉄矢がそれに答える、
と言う構成だった。

収録中のブースの中のふたりを見ている内に、ある事に気がついた。
武田鉄矢は、目の前に置いてある台本を一度も開かなかった。
台本は、アリバイのように置いてあるだけだった。

それなのに武田鉄矢は、女性アシスタントの問いかけに、
何のよどみもなく、熱く語り続けていた。

「男はつらいよ」の魅力。
寅さん、渥美 清の面白さ。

90分番組の正味75分。実際にはもっと掛かる。
それを、武田鉄矢が何も見ずに喋り倒しているのだ。

どれほど「男はつらいよ」のファンなのか?
どれほど寅さんを熟知し、かつ予習してきたのか?

界にとって、武田鉄矢は芸能界で功成り名を遂げた人だった。
「母に捧げるバラード」をヒットさせ、レコード大賞企画賞を受賞し、
紅白歌合戦にまで初出場を果たしていた。
今となっては酷い勘違いだが、悠々自適の世界にいる。
そう思っていた。(実は、谷村新司もそう思っていた)

ブースから休憩で出てきた武田鉄矢に、何か話しかけたかった。
それまで、仕事で何人もの芸能人、タレント、作家等に会ってきたが、
基本的に話しかけるのはタブー、話しかけないのがマナーだった。

その時は、年齢も近かったので、話しかけやすかった。
台本を見ずにトークを続けられる理由も確かめたかった。

数日前、ラジオの深夜放送で「あんたが大将」を聴いた。
昭和52年、1977年1月25日(火)に、シングルカットされた
海援隊の新曲だった。

偉そうにしているお山の大将を、持ち上げるようでいて、
小気味よくこき下ろしている一種のコミックソングだった。

「あれ、面白い歌ですよね」

間、髪を容れず、武田鉄矢の反応は、おそろしく早かった。
また、界が圧倒されるほどテンションの高い声音だった。

「レコード買ってくれました!?」

まだ世間知もなく、お愛想も言えない界。
そもそもステレオどころか、レコードプレーヤーすら持っていない。
しかし、咄嗟に嘘を言った。

「まだ、です」

嘘を見抜いて、しかし、それを責める事はなかった。
ただ、落胆という言葉が人の形をして、目の前にあった。

何も見ずに滔々と寅さん愛を語る事の出来る人。
ADですらない学生バイトの言葉に肩を落とす人。

理由は分からないが、この人の必死さに自分は到底及ばない。
その時突然「母に捧げるバラード」の一節が脳裏に蘇ってきた。

人さまの世の中でたら 働け働け働け鉄矢
働いて働いて働きぬいて 休みたいとか
遊びたいとか そんなことお前いっぺんでも思うてみろ
そん時はそん時は死ね それが人間ぞ それが男ぞ

新聞社、映画界、芸能界、テレビ局等々。
いろんな業界に首を突っ込み、まるで品定めのように
行ったり来たりしたが、この人ほどの必死さはなかった。

給料の安さもあったが、正直な話、どの仕事でも
いつか手抜きをするようになった。
仕事を舐める奴は、いつか仕事に舐められる。
まだ、その事を知らなかった。

何事もなかったかのように、武田鉄矢はブースに戻った。
界はひとり残された。
能力があるなしの問題ではなかった。
痛いほど、それが分かった。
自分には、仕事に取り組む姿勢が欠けている。
武田鉄矢が、それを教えてくれた。

定職を探そう。キチンと就職しよう。そう、心に決めた。
大学在籍6年目の終わりが迫っていた。

武田鉄矢必死の理由

今回、この記事を書くに当たって、武田鉄矢を調べた。
理由は分からない。本来なら前段で終わるはずだった。
いつもそうだが、何かが界を駆り立てる。
心のどこかに何かが引っかかっているから、
調べる事を止められない。そして見つかる。

ざっと30歳までの履歴を書くと以下のようになる。

① 昭和24年、1949年4月11日(月)福岡県福岡市博多生まれ。
② 昭和47年、1972年10月25日(水)海援隊デビュー。23歳。
③ 昭和48年、1973年12月10日(月)「母に捧げるバラード」発売。24歳。
④ 昭和49年、1974年10月27日(日)元銀行員の山田節子と結婚。25歳。
⑤ 昭和49年、1974年12月31日(火)第16回レコード大賞企画賞受賞。
⑥                  第25回紅白歌合戦に初出場。

⑦ 昭和50年、1975年12月31日(火)大晦日に妊娠中の妻と皿洗い。
テレビから流れる第26回紅白歌合戦を横目で見ていた。
       「俺はこんなところで何やっているんだろう」。26歳。
⑧ 昭和51年、1976年9月25日(土)「おやじ」先行発売。 27歳。
⑨ 昭和51年、1976年12月20日(月)アルバム「心をこめて回天編」。
⑩ 昭和52年、1977年1月25日(火)「あんたが大将」リカット発売。
      
⑪ 昭和52年、1977年2月か3月に界は武田鉄矢に出会い、
       その熱量と必死さに圧倒される。

⑫ 昭和52年、1977年4月10日(日)以前に山田洋次監督と面会。
      「幸福の黄色いハンカチ」出演の件で。
⑬ 昭和52年、1977年4月某日長女菜見子(なみこ)誕生。
⑭ 昭和52年、1977年5月1日(日)「幸福の………」撮影開始。28歳。
⑮ 昭和54年、1979年10月26日(金)「3年B組金八先生」放送開始。30歳。
⑯ 昭和55年、1980年2月某日次女空見子(くみこ)誕生。30歳。

娘さんふたりは、一般人という事で誕生年月以外の情報はなかった。

界が武田鉄矢と会った時、彼は絶不調の低迷期からの脱出を
計っていた。それは、このアルバムタイトルからも分かる。

⑨ 昭和51年、1976年12月20日(月)アルバム「心をこめて回天編」。
「回天」とは天下の形勢を一変させること。
また、衰えた勢いをもり返すこと。
       
低迷期にあった武田鉄矢の意気込みが伝わるネーミングだ。
このアルバムの中の「おやじ」が先行発売され、
評判の良かった「あんたが大将」がシングルとしてリカット発売された。
それが昭和52年、1977年1月25日(火)の事。
これが、界が武田鉄矢に会ったのが2月か3月だと推理する理由。

そして・・・。
⑬ 昭和52年、1977年4月某日長女菜見子誕生。
界が武田鉄矢に会った時、それは長女菜見子が生まれる直前だったのだ。

もうすぐ生まれてくる子供を育てるには、
何とかして再び浮かび上がる必要があった。

「母に捧げるバラード」の印税はとうになく、
事務所は弱小で、給料が4ヵ月もない生活から脱出する必要があった。

武田鉄矢の必死さは、その現れだったのだ。

自分が、人の子の親になった時を思い出す。
その時の武田鉄矢が感じていた責任の重さと焦りが、
痛いほどよく分かる。

武田鉄矢の履歴の謎

しかし、調べはそこで終わらなかった。
履歴を見ている内に疑問がわいてきた。

⑦ 昭和50年、1975年12月31日(火)大晦日に妊娠中の妻と皿洗い。26歳。
働いていた店は、原宿のスナックとも焼肉屋とも。記事によって違う。
両方かも知れない。それは良いとして、この時、奥さんは妊娠6ヵ月~7ヵ月だった、と言われている。

この事は、2014年1月27日のラジオ「武田鉄矢 今朝の三枚おろし」で、
ご本人が語っている。(生憎アーカイブは見つからなかった)
それ以外の記事にも、同様の事が書かれている。

昭和50年、1975年の大晦日に妊娠6ヵ月~7ヵ月の胎児が、
昭和52年、1977年4月某日に生まれるなどという事があるだろうか?
弁慶や老子ではあるまいし・・・。

勘違いか、語られていない何かがあるのか。

今まで、武田鉄矢を取材し記事にしてきた記者たちは、
この事に気がつかなかったのか?
それとも、何らかの忖度が働いていたのか?

武田鉄矢は、1988年に娘ふたりのイラストの入った絵本を出している。
「雲の物語」という本の現物を図書館に確認に行った。
そこには間違いなく、菜見子(なみこ)1977年東京生まれと書いてあった。
自分の本の記述で、娘の生年を間違えるとは思えない。

ところが、「おじなみの日記」と言うブログにこんな記事も見つかった。

この日が長女の誕生日なら、齟齬はないのだが。

このブログにはコメント欄がないので、確かめようがなかった。
「ちんぺい」と言うのは、令和5年10月8日(日)に惜しくも逝去した
谷村新司の事だと思う。

「本に書いています」とあるが、出典が明記されていないので、
簡単には調べられない。図書館に行っても調べきれなかった。

記憶は話している内に辻褄が合ってきたり、
辻褄が合わなくなる傾向がある。
取材に対し、本人が答えているのに、産婦人科へは電車で行ったとか、
車で行ったとか、記事内容が違いすぎたりする。

谷村新司に誘われてヤングジャパンに移籍した時も、お願いして
リーダー手当てとして給料は5,000円プラスの10万5千円にしてもらった。

その話も、いつか2万円プラスの12万円になっていたりする。

記憶は話している内に辻褄が合ってきたり、
辻褄が合わなくなる傾向がある。しかし、劇的になったりする。

ハンフィクションで始まった話が、思いもかけず、
まさかのハンフィクションで終わるのか。
それもまた、妙かもしれない。

どちらにしても、界にとって武田鉄矢が恩人である事に変わりはない。

昭和52年、1977年の2月か3月に、界は一度だけ武田鉄矢に会っている。
ここにも、形を変えた一期一会一会一生 があった。

以上「恩人、武田鉄矢」

参考資料

:Wikipedia……「武田鉄矢」「海援隊」「母に捧げるバラード」
           「幸福の黄色いハンカチ」
     YouTube……「地球劇場 海援隊特集」
     Rakuten BLOG「おじなみ日記」
     NEWS エンタメライン
     D-media
     小学館「雲の物語」
     産経新聞1月連載「話の肖像画」
     等々

追記)あとがきにかえて

  ⑫ 昭和52年、1977年4月10日(日)以前に山田洋次監督と面会。
         「幸福の黄色いハンカチ」出演の件で。

   昭和52年、1977年4月10日(日)以前、と書いたのは理由がある。
   「話の肖像画」から転載する。
  
   呼び出しの場所は、なんと赤坂でした。
   「龍馬だ」と思いました。
   坂本龍馬が赤坂に住んでいた勝海舟に会い、
   志を固めたのが27歳の時でした。
   私も当時27歳で、「俺の勝海舟はこの人かな」と思いました。

   4月11日(月)は、武田鉄矢28歳の誕生日。
   だから、4月10日(日)以前に山田洋次監督と面会、なのです。

   これもまた、記憶は話している内に辻褄が合ってきたり、
   辻褄が合わなくなる傾向がある。しかし、劇的になったりする。
   その一例かも知れない・・・。

   長女菜見子の誕生から1週間後、武田鉄矢は
   「幸福の黄色いハンカチ」撮影のため、北海道へ旅立つ。

   そして界は昭和52年、1977年9月1日木曜日、眼鏡道楽に入社する。
   35年と198日、計12,982日間の眼鏡屋生活が始まった。

   その一ヵ月後「幸福の黄色いハンカチ」は公開された。

   「恩人、武田鉄矢:長女菜見子さんの誕生日」へつづく。 
 



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