0124 noteに書くということ

私は、noteに書くことが好きです。
自分の思いを書くことが。

さっきあげた文章を書き上げて、
「公開に進む」のボタンを押す時に思ったんですよね。

「まさかこんな結末になるとは」って。

私はnoteを書く時に、結論を考えずに始める。
ことがほとんど。

だから、最後どうしめたらいいかわからず
長々とダラダラと書いてしまうことがあります。

書いきれないことも。

急にやめることも。

で、さっきの投稿は、
息子とマイクラしたことが楽しかったな
と言う思いで書き始めて
やはり最後がどうなるかは決めていなかった…

と言うか、考えてすらいなかった。

だから、最後、あんなふうに終わるなんて思わず
自分で驚き、
それと同時に

だから書くことが楽しいのか、とも思った。

自分でも予想していなかった着地点に至る。

その、先の見えない感じが、もしかすると私好きなのか…!?

何事も、目標やゴールを決めて始めましょうと言われている。

7つの習慣でもそう。

終わりを思い描くことから始める、と。



もちろん、目標や終わりを描くことは大事。
それもわかる。

だけど、描かなくてもいいのかな。

そんなことも思ったり。


あーーーでも、昨日聴いていた本
「すごい無意識」の中で書かれていて
私の中で記憶に残ったところは、

目的基準、体験基準

体験中の感覚の心地よさ気持ちではなく、
目的を達成したときの心地よさを目的にするべきだと。

私がこの書いている時に、
どこに着地するかわからない楽しさを感じているのは
おそらく体験基準。

じゃあ、noteを書く楽しさがわかった今、
その着地点がどこか知ることを目的とすればいいのか…?


わからなくなったからいいや。

どんなスタートだったとしても、
着地点はいろんなところにいける。

その物事を、どう捉えるかによるから。

例えばさっきの息子とマイクラする午後。

このタイトルから考えられることはたくさんある。

”息子にマイクラのコマンドを教えなければならないから
私は仕事が邪魔されるし、思うように進まない。

だけど、児童館に行かない息子を許しているのは自分だし
自分の責任だから文句は言えない。

ただ、夫はもっと協力してくれてもいいなじゃないの?
って不満が消えません。

って、不満を言っていても変わらないので、
夫にどう伝えようかなぁ。”

って終わるのもあり。

”ってかそもそも、夫は息子との時間をとりたくないのかな?

私ばっかりこんなに子供たちとの時間をもらっていていいのかな?

だけど休みの日もひたすら自分1人で色々やりたそうだし
いいのか。

だけど後で後悔しないのかなぁ。”

なんてことも言える。

そん時その時で思っていることは変わるし、
どこに目を向けるかも変わってくる。

ありがとう、愛している。

から発展して、

息子が生まれてきてくれたのは、
夫のおかげ。

夫がいるのは夫の両親のおかげで、
私が今ここに生きているのも
両親のおかげ。

そして、それぞれのご先祖様のおかげ…

なんて方向にも行ける。

だからさ、
物事の捉え方なんて
ほんと人それぞれ。

どこに着目するか、
どこを発展させるか。

自分の方向性って、
だいたいいつも決まってくるのかもしれない。

いつも同じことを考えていると
それが「あたりまえ」になるんだろうな。

自分にとっての当たり前が強固になっていくと
自分の当たり前と合致しない人の意見や行動に
「むむむ」するんだろうね。

一方で、
似たような方向性の人がいると
共感したり、すきって思ったりするんだろうね。

あー面白い。

だから、ある一つのテーマでも
違う内容の本がたくさん出ていたり、
インスタでもさまざまな人が発信しているんだよね。

こうやって頭の中で考えること、
考えていることを外に出して打ち出すこと。

これが好きでたまらなくて
noteは楽しいんだ。

そして私は型式に囚われるのが苦手だ。

自分でどんな形式にしていたか忘れちゃうし
その時その時でやりたいことは変わるし。

これが私なんだよな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?