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自衛隊、幹部候補生学校の思い出

人生の節目節目で、ふと自分の過去をふり返る。 
 2000年代後半、基地通信隊で陸士として勤務していたわたしは、自衛隊を退職するつもりだったのだが、べつに次の就職先が決まっていたわけでもなく、ひょんなことから幹部候補生陸曹長になってしまった。 
 今回はそのことを記したい。

よく間違われやすい用語に、幹部学校(目黒)と幹部候補生学校(久留米)は根本的にべつの教育機関なので、混同してはいけない。
 前者は、上級幹部のための研修機関。後者は初任幹部のための初級の教育機関であり、陸上自衛隊の幹部になるための資質を涵養し、併せて初歩的な戦術教育がおこなわれる。

学校には教育課程がいくつもあり、もっとも長いものに、BU課程が9ヶ月、反対に短いものには医科歯科・看護官のためのコースがあって2ヶ月程度だったと思う。
 当時の陸上自衛隊幹部候補生学校の編成は、学校長を筆頭に、その下に4個の候補生隊があった。それぞれの候補生隊は、さらに区隊に分かれており、それぞれの区隊に教官と付教官、助教があてがわれて、候補生に対して教育指導がおこなわれる。
 他にも幹部候補生学校教導隊というものがあり、野外訓練では候補生たちの訓練を支援したり、仮想敵になったりしていた。
 ちなみに学校のモットーは、“剛健”である。この剛健というキーワードは学校生活を通じていろいろな場面に登場してくる。

この学校にいる9ヶ月、わたしは防衛大学校の卒業生たちと同じ区隊で一緒に生活し、さまざまな人間を観察する機会にめぐまれたと思っている。なかには、この人なら将来大物になるだろう、と思えるような傑出した人物もいた。
 自衛隊に一度でも身を置いたことがある人間であれば、営内班生活では起床と消灯時のラッパの音色を忘れることはないだろう。ラッパとともに起床し、ラッパとともに就寝する、あの日々。
 朝は慌ただしく駆け出して、整列点呼の際には上裸になって乾布摩擦をしたものだった。朝礼のときには、5分間スピーチなんてのもあって、話のネタを考えるのに苦労した。毎日が慌ただしく、每日が試練、集団生活だからみんなの足を引っ張りたくないと、とにかく必死だったのを思い出す。
 座学の授業中は、誰もが疲れて居眠りをしていたが、露骨に居眠ると教官たちも機嫌を損ねるので、みんな要領よくやっていた。
 この学校ではやたら旧軍の軍歌を斉唱することが好まれて、たとえば“抜刀隊(陸軍分列行進曲)”や“同期の桜”、“歩兵の本領”なら卒業までの間にそらで唄えるようになる。

学校生活の折り目折り目には、各種の行事があり、そのために集中的な錬成も行った。思い出深いのは、高良山登山走や、藤山武装障害走とかだろうか。
 野営訓練では、鬼のように過酷な徒歩行進訓練を忘れることができない。これをただのハイキングと思ってはいけない、さまざまな武器や装具、通信機器などを装備した上で、隊列を組んで日に何十キロと歩くのである。
 また、いろいろな研修が充実していて、日本国内の戦跡や資料館などをめぐる機会もあり、他にも沖縄研修や韓国研修(現在は中止か)もあった。そういった研修の際には、所感文を書かなければならなかった。

防衛大学校の卒業生たちは、明らかに集団生活に慣れていて、だれかに命令したり、あるいは従ったりすることに慣れていた。一般的な大学の新卒者たちと比べて、自信があり、尊大な印象さえ受けたかもしれない。
 この学校の教官たちも、厳しくても理不尽というわけでは決してなく、人格的にもバランスの取れた方が多かったと思う。
 近年、自衛隊ではいろいろなハラスメントや長時間労働が問題になっているが、一人ひとりの人間をみれば決して悪い人間ばかりというわけではまったくなかったと思う。ただ、組織全体をみると、やはりどこかおかしいのだ。

この学校の特徴として、落ちこぼれでも見捨てない、できるだけ脱落者を出さないところもあった。これは陸上自衛隊の教育全般にみられる傾向で、他の学校、たとえば警察学校とかと比べると対照的だと思う。警察ドラマ「教場」をみると、警察の教育は情け容赦なく、脱落者を出していく印象がある。
 ただ、この学校での成績や生活態度、野外訓練でのリーダーシップ、適性検査の結果しだいで、その後の幹部自衛官としての将来がだいたい決まってしまうようなところがある。たとえば、将来、将官にまで出世するであろう人物は、この時点でおおむね選別されているように感じられた。




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