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雷って、怖いよね

 初夏の街は今日も雨だった。僕の街は雨濯うたくのうだるような蒸し暑さに憑かれていた。
 僕はむっと熱れいきれのする帰途についていた。大学前のバス停には僕以外にいなかった。駅行きのバスはあと17分待たなければ来ない、立って待つのも立ち草臥れるたちくたびれるので僕は木のベンチに座った。雨音はいい加減にテンポを変え続けていて、それに紛れて微かに時報のチャイムが聞こえてくる。時報は僕に時刻が午後18時であることを教えてくれた。バス停のある並木通りはいつもは百色の傘に彩られるのだが、今日はほとんど人がいなかった。
 「静かな雷って、怖いよね」
 「え?」
 僕が後ろを振り向くと、彼女がいた。彼女は白のロング・ワンピースを着ていて、トートバッグを左肩に提げていた。彼女の黒い無垢の髪は濡れていてそれが彼女の本来あるべき一種の高踏さを妖艶な雰囲気に塗り変えていた。透き通る憂鬱。まどろう街灯。彼女は傘を持っていなかった。
「つまりね、普通の雷って雷鳴がするでしょ。絶対に。あと、最初にパッと光って、それでも数秒後に轟音はするじゃない。」
「はぁ」
 そう言いながら彼女は僕の隣に座った。一度辺りを一瞥したが僕と彼女以外に誰もいない。
 「でも、ほんとに怖いのは稲妻だけがすることなの。とても稀に起こるの。何度も何度もランダムな間隔でまぶしくなるだけなんだけどね」
 「そうなんだ、でもなんでそれが怖いんだい?」
 「多分、光った後に雷鳴をずっと待ち構えちゃうからまるで緊張が机の上に堆積した本みたいにどんどん膨張して息が詰っちゃうのもあると思うけど、それだけじゃないの。なんかもっとこう…..」
 彼女は真白で嫋やかたおやかな指を抱えた手ですべらかなあごを支えて考えを巡らせはじめた様子だった。
 僕も静かな雷について考えることにした。静かな雷、静雷は僕に岩だらけの山岳を自由に駆け回るアイベックスを想起させた。そして、彼らは僕の頭上の暗澹の雲の中をブラウン運動のように互いにぶつかり合い、それが火打石をたたきつけると火花が発生するのと同じ原理で静雷がおこるのだと便宜的に考えることにした。しかしなぜそれが怖いのであろう。僕にはわからなかった。あるいは、彼女の深層にある忌まわしい記憶が静雷と結びついていて静雷のたびに臍帯を通じて母と胎児が栄養と老廃物を交換するように彼女に憂恐を催させているかもしれない。
 「よくわかんないよね、こんなこと言っても。雨は好きなの、非日常的な感じがして」
 「僕も雨は好きだ。雨は全部を包み込んでくれる。まるで毛布のように」
 「わかる気がするわ」
 「もし君がその静かな雷について気付いたことがあったら教えてほしい」
彼女の静かな雷と僕の求めているものには共通の構造があると直感していた。また、僕は彼女のためにできることはできるだけしたいというのもあった。
 「ん、そう、ありがとね」
彼女も少し気が休まったようでおとがいにあてていた手を太腿の上に落とし、美しい瞳をゆっくり閉じた。
 幾条もの銀箭ぎんせんがコンクリートを打ち付ける音だけがとおく響く。僕らは再びバス停の屋根の下に静謐をつくった。辺りをもう一度一瞥したがやはり、誰もいない。パンツの左のポケットの中を探ると、スマホ、ICカード、それと小さな冠の玩具が入っていた。

 僕は確かに水飛沫の冠を手に入れた

 そう考えているうちにバスのヘッドライトが僕らの沈黙を破った。僕らは睡蓮のラッピングがされたバスで鉛色の雨粒の中、家路に向かった。




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