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FLEE FOR FREE!!! 

誰かが名前を呼んだ
午後の夢 やぁジョナサン
過去と未来の囚人 見えぬ檻でぼやいてる毎日

『ジョナサン』 キリンジ

 目が覚めると夕暮れだった。どうやらあれから一日中寝ていたらしい。
 寝室は初夏の淡い夕暮れに染まっていた。寝室をでて、キッチンの戸棚を開きガラスのコップを取り出した。ガラスのコップはすでに澱んだ夕陽でいっぱいだったが僕は構わず蛇口のレバーハンドルを上げコップに水道水を注いだ。新品の細いロープのような澄んだ清潔な水が一直線にコップに向かっていき、それに従ってコップは次第に輝きを取り戻しついには水で満たされた。僕はその水を飲みほす。乾いたのどが潤っていくのを実感するのと同時に、けだるい体に生気が戻っていった。
  僕は再び夕暮れが注がれたコップをステンレスのシンクにそっと置き、部屋の西側にある戸を開けベランダに出た。太陽はあと数十分もしないうちに地平線に沈むだろう。追えば逃げていく地平線に。
 胸の高さほどある手摺壁にもたれ掛かり街を見下ろすと歩道には様々な制服の学生や仕事おわりのスーツ姿の人々がごった返し、車道にはすでに渋滞ができて道路は車の赤橙色のライトでちぎれたおもちゃのルビー・ネックレスのように安っぽくちかちかと光っていた。彼らは彼らの今日をやりきり明日の生活に備えてベッドに向かう。彼らのうちいったいどれほどが日常に満足しハッピーで、どれだけの人が倦怠し憂いているかはわからないが彼らの今日はおおむね平均的な日だったのだと遠くから俯瞰して思う。しかしながら彼らと対比すると僕の部屋が急に薄暗く落魄としたように感じた。まるで映画のエンドロールのときにこのホールから出たら待っているであろう主人公とはかけ離れた僕の無意味な生活を想像したときのような気分だった。  
 実際、僕は(少なくとも何らかの法律に記述があるように)自由で、この斜陽の生活から逃げ出し僕の望む生活も手に入れることができる。しかし、おそらくその生活にもいつかは飽満するだろうし、それ以上に僕がどこにいっても何をしてもこの僕が僕を追いかけてくるような気がする。虚無感はまるで定期的に連絡をよこす中学の頃の友人のようにしばしば僕のもとにやってきて、そのたびに僕に独り言のようにささやく。
 「無理」
と。その言葉は盆休みにだけ帰ってくる親戚みたいに僕の中に数日間滞在し僕の思考の数十パーセントを費やさせるのだ。僕は雨に打たれてうつぶせる蜥蜴のようなもので喚き泣きもせずただそこで降り止むのを待ち、止めばまた雨が降ることを恐れる。
 僕の牢獄生活の監視者は僕自身だった。認める。僕はもう一度彼らの幸せそうな生活のミルキー・ウェイを見渡し手摺壁から離れ、戸を開けたままにして部屋に入った。
 部屋に入ると急にひどく空腹を感じたので僕は冷蔵庫を開けてみた。開けると暑い部屋に蒸された皮膚が一瞬冷やされ心地よかったが、案の定ほとんど食材がなかった。冷蔵庫には飲みかけのパックジュースと数枚のハム、2本の缶ビール、昨日の夕食のときに作った簡単なサラダしかなかった。冷蔵庫の隣にある戸棚には数切れのパンがあったので、これらで済ましても良いがそんな気分でもなかったので外食することにした。
 軽くシャワーを浴び、洗面所で髭を丁寧に剃り歯を磨いて無地のTシャツとジーンズを履いた。そして黒のクルー・ソックスを履き、財布と家の鍵、車のキーをもって玄関に向かう。玄関は最初はのっぺりとしたベージュ色だったのだろうが今はところどころ塗装が剥がれ落ちている。あと数年もしたら完全に錆びついてしまうドアを見ながら、アディダスの緑のカントリーを履き、温いドアノブを捻る。ドアは金属の擦れるような音とともに分厚い辞書を開けるみたいにゆっくりと開いた。外はすっかり日没していて夜の始まりを告げるように夜鷹が短く鳴いた。
 錆びついてままならない人生。僕は階段を下りながら夜にのまれたガラスのコップと錆びたドアについて考えた。



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