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永訣、ローマ字、ストロベリー・タルト

ほとんどの付き合っている男女の別れ方がそうであるそうに(僕らはけっして恋人という関係ではなっかたのだが)一応、僕らにあった出来事を話し合いながら最後の食事をとった。僕らはまるで秋のクマのように記憶の中にある思い出を片っ端からひろってそれについて話し合った。そのほとんどは普通のカップルにとってはとるに足らない日常の些細なことだったが、来たる孤独の季節にむけて一つでも多くの美しい思い出を僕の心の最奥にとどめておきたかった。
 白い陶器の食器に落ちた暗い蛍光灯の鈍い輝きが僕に冬の到来を実感させた。ああ、いったい僕はどうして彼女と永訣しなければいけなくなったのだろう?
 ある程度食事が終わったときに彼女が突然
 「喜びはいつも痛みの後にやってくるものよ」
といった。あまりに突然だったのでストロベリー・タルトにさしかけたけたフォークをいったん止めて彼女のほうを見た。彼女は微笑んでいるようにも、泣いているようにも見えたが、たぶんその両方だったのだろう。彼女はまるでどこか空中に浮かんでいるローマ字で綴られた一節を間違えないように、慎重に読んでいるようだった。それは僕に「永訣の朝」を想起させた。(それと同時になぜか高校で片想いしていた子が現代文の授業で永訣の朝を音読していたのも思い出した。彼女もまた美しい人だった)

Ora Orade Shitori egumo.

といった感じで、彼女の言葉をあえて表記するなら

Yorokobi ha Itumo Itami no Ato ni yatte Kuru monoyo.

という感じなのかもしれない。
 僕はどうやってそのローマ字の文にこたえるか思慮したので、二人の間に幾秒かぼ沈黙があった。僕はそれに堪えられず結局「その通りかもしれない」とつまらない返事しかできなかった。

 食事が終わって、僕たちはレストランをでた。あたりはすでに夜を半ば脱ぎ捨てていた。僕は今この街の中心にいて、それを未来の僕がどこかで見ていて、それを懐かしく思えるような日が来るのだろうか。
 「ねぇ、」
僕ば彼女のほうをみた。朝日と穏やかな北風。陰翳と架線橋。
 それはまるで花弁が地にゆっくりと舞い落ちるように僕の唇に訪れた。僕はキス自体は初めてでなかったが(もちろん何回目かなんて覚えているはずがない。また僕はキスの批評家ではないことも踏まえたうえで)この感覚は新鮮であった。彼女の唇はさきほど食べたストロベリー・タルトのかすかな甘美と酸味を湛えて、僕は甘酸っぱいキスを心の最奥にまたとどめ厳重に保管せねばならない。
 彼女は数秒間の接吻からはなれ、
 「もし、また逢えたら今度は君からキスして。優しくキスして」と言った。
 「わかった」と僕もこたえた。
 



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