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1円玉をひろう人生/2000万円を気持ちよく手放す人生

佐藤です。社会人だけど、仕事の成果に直結しない大学院生になって、ツラいけど楽しいー!って思ってるわけですが、これをやるには、「10年働かなくても死なない資産」とか「だれかの月給くらいなら、ほぼヒヤッとせずに、毎月の運用益で出せる自信」とかが必要でした。あんまり、他人にオススメできることじゃないのかも知れません。

よくネットやビジネス書では、中途半端な成功者が、「オレにできたんだから、みんなにできる」とか言いがちですけど、それは勘違いもしくは傲慢というもので、あなたが生まれるのが5年遅かったら同じことができたのか?5年早かったら?もしくは、時間をもどして完全に同一の条件で100回くりかえしたら成功と失敗の内訳は?と思ったりします。いやいや、再現性があるし失敗してもオレは立ち上がるよ!って言い返されそうですけど閑話休題(⟵なぞのことば)

大人にとっての経済状況って、ただの数字なんですよね。50万円持ってるひとは、20万円持ってるひとより、30万円お金持ちです。ぎゃくに、50万円持ちが30万円使えば、20万円しかなくなっちゃうし、逆もしかり。
しかし被扶養者の子供として家計に参加していた状況(生まれや育ち)って、そういう数字の問題じゃなくて、人格形成にも影響しかねない質的な差異になると思います。親がお金が得意でないと、貧しさや恐怖が身に刻まれます。

まことしやかに言われますが、一円玉をひろいあげるために消費するカロリーを摂取するには、1円以上の食費がかかるので「赤字」だそうです。
ここはホワイトであるべきネット社会なので、自分の財布からコインを落とした場合として論じてみることしかできないわけですが、
「あなたは一円玉をひろう人間か」
という問いの答えって、大人になってからの経済状況ではなく、子供のときの感覚を引きずると思うんですよね。ぼくは、がんがんひろいます。それこそ、コインかと思ったら、床の装飾だった、なんてことはよくあります。むかしなら、ビンの王冠だった、という場面ですよね。
子供のころに、『ちびまる子ちゃん』の本編か、作者のコラムかで、「お金だと思ってしゃがんだら、ビンの王冠だった。気まずくて、靴ひもを結び直すふりをする」って書いてありましたが、当時の(そして今の)感じ方としては、そんなことに恥じずに、どんどん拾いに行くべきだ。ハズレを恐れて可能性に躊躇するなんてあり得ないだろ!という卑しさ。大学時代は、「癒し系ならぬ、賎しい系」って言われたこともあるしな。

なんの話をしてるのかって記事になってきましたが、大学院で修士号をとるには、ぼくの場合は、2000万円弱かかるんですけど(過去に試算をした記事があります)、一円玉をひろうぼくが、修士号を取りにいくには、再現性のないラッキーと、それなりの努力が必要だったわけで、安易に薦められる道ではないなって言いたかったんです。

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