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20年経っても教授からのコメントは同じ

佐藤ひろおです。早稲田の大学院生(三国志の研究)と、週4勤務の正社員(メーカー系の経理職)を兼ねています。

卒業論文への教授のコメント

小中学生のころから日本史が好きだったので、
大阪大学 文学部 人文学科 日本史学専攻
の学生になりました。

大学在学中にいろいろあって、日本史学への情熱がなくなってしまった。ともあれ卒業論文を書かなければならないから、「ザ・日本史学」という定番のテーマや切り口を敢えて踏み外して、「日本の歴史に無関係ではないが、趣味に走りすぎだ」
というテーマと切り口で、卒業論文を仕上げました。

そのとき、近代史を担当していたI教授から、
「文章はうまい。よく書けている。内容はよく分からなかったけど」
みたいなコメントを頂戴しました。
当時の自分は、
わざとテーマや切り口を変えたのだから、「内容がよく分からなかった」という評価は、「このゼミで求められているテーマや切り口ではない。専門外なのでコメントしづらい」という意味かな、
と捉えました。内容が伝わったどうかは関心がなくて、ただ文章が褒められて嬉しいなーという程度で終了。

修士論文への教授のコメント

会社員生活15年を挟み、大学院に入りました。卒業論文のときから20年弱を経て、2024年1月に修士論文を書き上げ、やはり口頭試験でフィードバックを受けました。3人の先生にコメントを頂いたのですが、

「論文として普通に読めてしまった。しかし、これでいいのかな?という気がした」
「通常、学生の修士論文というのは、『あまり読めたものではない』のだが、佐藤さんの論文は読めてしまった」
「叙述力がある。しかし、叙述力に溺れてはいけない。もちろん、叙述力がないよりは、あったほうがいいのだけれど」

おや?

これって、卒業論文のときの、
「文章はうまい。よく書けている。内容はよく分からなかったけど」
と似ています。

卒業論文のときは、研究の世界から旅立つのだから、「内容はよく分からなかったけど別にいいや。とりあえず、卒業させるには十分なレベルです」ということだったと推察します。
修士論文は、口頭試験の時点で、博士課程への進学希望を伝えていたため、アドバイスの角度が異なるだろう。
うまく言いくるめて終わりにし、浅いところで研究を完結させてはいけない。内容が浅くてもカタチにできてしまうから、それがかえって将来性を限定してしまうのではないか」という訓戒だったのだと推察します。

卒業論文のフィードバック時は、「えへへー」って感じで終わってしまったんですけど、修士論文に対しては返答しました。
「通常の大学院のゼミでは、わたしは支離滅裂で冗長な研究報告ばかりやってきました。しかし、『まとめる力もあるのだ』とお示しするつもりで、修士論文を書きました」
これにはウソがなく、主査(指導教員)も頷いていました。苦笑なのか、納得なのか、よく分かりませんが……。口頭試験というピリッとしたフォーマットに助けられ、かえって果敢に発言しました。

ぼくは大学院のゼミで、稀有壮大な話をしたかと思えば、テーマの絞り方が甘かったり、どこに焦点を合わせたか分からなくなり、深めたと思ったら深めすぎ(もしくは深めることに失敗し)、浅くまとめて乱暴すぎて……、みたいな発表ばかりしています。
※noteの記事を書くスタンスに近い。文体は整えますが

ある日常の1コマで、いまの先生に話したことがあるんですけど、「ぼくは授業料を払っており、ゼミの時間中は、(つまらない)話を聞いて頂く権利があると思っています。ですから、その時点で考えているすべてを、ぶつけてみたいと思っています。何が研究に繋がるネタなのか分からないので、感触を確かめたいのです。もしも会社ならば、5秒でまとめろ!と言われたら、すぐに黙りますが」

「うまく言いくるめる」スキルは、行使しようと思えば行使できる。しかし、そのスキルに溺れて小さく研究をまとめようとは思っていません。ということを、指導教員に伝えてきたつもりです。

それにしても、20年たっても同じコメントを異なる分野、異なる学派、バックグラウンドを持った先生たちからもらうなんて、不思議な話です。おそらく、ぼくの本性に根ざしているのでしょう。戒めつつ活用すべし。

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