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小説 『黒い雨、死の灰、赤いクーペ』 #2/3


夢オチ、という魔法の言葉がある。

少年ジャンプで連載が打ち切られる漫画や、逆に長すぎて収集がつかなくなった漫画でときどき使用される。

物語の全部が夢だった、という展開。目が覚めたら別の世界だった、というオチ。

それまでのストーリーを全部無視してちゃぶ台をひっくりかえす禁断の手法だから、評判は良くない。でもーーと私は思う。現実が直視できないくらい悲惨なら、夢であったほうが絶対に良い。

起きて別世界だったら泣いて喜ぶほど幸せだったのに、まだ私は地下の研究所にいた。

停電のため薄暗い非常灯だけの部屋。暖房は停止中で、吐く息も白い。カビ臭い毛布一枚にくるまり、手足と背中が冷え、起きるなり身体が震えだす。

かじかむ手で枕元の眼鏡をかける。ミナミは隣のベッドで頭まで毛布をかぶっている。いびきは聞こえない。起きているのかもしれない。

温かいコーヒーの匂いがした。仮眠室のカーテンの向こう、17歳のナカムラくんがティファールでお湯を沸かし、ブレンディのコーヒースティックを溶かしている。コンセントの先はガソリンで駆動する小型発電機に接続されている。

「ヒイラギさんに、見つかっちゃった」とナカムラくんは私に気がつき照れながら笑う。「こっそり、ひとりで、飲もうと思ってたのに」

「最後の一本なの?」

ナカムラくんは笑顔でうなずく。ミルクティーは飲みきったし、緑茶もすでにない。あとは白湯か。私は、飲みなよ、と手でジェスチャーする。ナカムラくんは命の恩人だから、贅沢する権利がある。

ハートアタックを下りきった先にある研究所のドアには鍵がかかっていた。内側から厳重に。なかにいるのは一人しかいない。ナカムラくん(信州大学の理学部1年生。飛び級で入学した17歳。好きな食べ物は、頭だけのカプリコ)だ。

「ナカムラ! なに鍵かけてんだよ!」とミナミさんが狂ったようにドアを叩く。まるで3年ぶりに人間を見つけた鬼のようだ。

「なにって、ガイガーカウンターから、どえらい音が聞こえますから」インターフォン越しのナカムラくんの声は、いつもどおり落ち着いている。5歳にしてIQが160を超えていた天才少年だ。

「鳴ってるからこそ、入れてくれ! 外はもうダメだ! 汚染されてる!」

「汚染されてるのは、ミナミさんたちの身体です」

私たちは声を飲みこんだ。たしかに放射性物質を付着させているのは、汚染源になっているのは、私たちかもしれない。

短い時間とはいえ、外に出て、霧のような微粒子に触れた。きっとガイガーカウンターが感知しているのは、私たちの身体から放たれている放射線だ。

インターフォンから、ナカムラくんの穏やかな声が聞こえる。「18番区画に、シャワールームがありますよね? 水しか出ないですけど、まずは、全身を洗ってください。服と、ガイガーカウンターは、ゴミ袋に入れて、きつく縛って、15番区画に閉じ込めてください。急いで」

頭のなかで運動会のテーマが流れる。『天国と地獄』だ。私とミナミさんは服を全部脱ぎ捨て(パンツも、お尻に貼っていた絆創膏も、コンタクトレンズも、Fitbitも、すべて)、13番区画の資材庫にあったゴミ袋にぶち込み、ゴミ袋をさらにゴミ袋に入れて、5重にし、きつく縛ってから15番区画の奥に投げ捨てて、扉を閉める。

次に、氷水のように冷たいシャワーで全身を洗う。冷たい、というよりも痛い。無数の針で隙間なく間断なくつつかれているみたいだ。

シャワーを浴びながら、交代でバケツに水をくみ、私たちが歩いてきた廊下を除染する。水は低きに流れ、ハートアタックの始まりにある側溝に集合し、さらに地下のタンクに集約される。

ようやく研究室の裏口に通じる小部屋に入ると、もう一つのガイガーカウンターが床に置かれていた。スイッチを入れる。針は動かない。そこでやっと、ナカムラくんが裏口を開けてくれる。満面の笑みで、両手で毛布を抱えている。

「発電機のガソリンは1.5リットルしかないので、もって3日です」とナカムラくんは状況報告を始める。私たちが外にいるあいだに調査したらしい。私とミナミさんは唇を紫にし、歯をガチガチ鳴らしながら、何度もうなずく。

「もちろんエアコンはつけられないし、エレベーターも動かせません。食糧は、菓子パンが3個、カップラーメンが5個、コンビニ弁当が4個。あとは倉庫から見つけた賞味期限が2年切れているカロリーメイト、10本です。水道は地下水なので汚染の心配はありません。ふつうに3食食べたら2日分の食糧です。以上です」

「ど、ど、どうしたらいい?」とミナミさんはもはや冷静さを欠いている。ここまでの展開が早すぎて、40歳の可塑性を失いつつある脳味噌ではついていけないようだ。

私は体温が戻らず頭がぼんやりしている。低体温症の初期症状。

「選択肢は3つあると思います。1つめは、可能なかぎり節約して毎日つらい思いをする。2つめは、ある程度自由にして後でつらい思いをする。3つめは、いっそうのことーー」とナカムラくんは笑顔で言った。「みんなで仲良く降参する」

私は座っているイスを激しくガタガタと揺すった。夢オチだったら本当に良かった。



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