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幸せになる勇気

2021.11.23 読了  岸見一郎 古賀史健

哲学(Philosophy)の語源であるギリシア語の[Philosophia]は「知を愛する」という意味を持つ。
哲学は学問というより、生きる「態度」なのだ。

▼教育の目標は「自立」である

アドラー心理学では、カウンセリングのことを「治療」とは考えず、「再教育」の場として考える。
カウンセラーとは教育者であり、教育者とはカウンセラーである。
教育とは「介入」ではなく「援助」。
もしも地球上にいひとりも他者がおらず、自分一人で生きているのだとすれば、知るべきことはなく、教育の必要もありません。そこに「知」はいらないのです。
ここでの「知」は学問だけでなく、人間が人間として幸福に生きるための「知」も含む。

アドラー心理学が目指す目標
【行動面】
①自立すること
②社会と調和して暮らせること
【心理面】
①私には能力がある、という意識
②人々は私の仲間であるという意識

▼尊敬とは「ありのままにその人を見る」こと

「尊敬とは、人間の姿をありのままにみて、その人が唯一無二の存在であることを知る能力である」→心理学者 エーリッヒ・フロム
また、「尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気遣うことである」
尊敬とは、いわば「勇気づけ」の原点。

尊敬(Respect)ぼ語源となるラテン語の「Respicio」には、「見る」という意味があります。まずはありのままのその人を見るのです。
そのRispectによって変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。しかし、尊敬によって、生徒一人一人が「自分が自分であること」を受け入れ、自立に向けた勇気を取り戻すことになる。取り戻した勇気を使うか使わないかはその人次第。

相手をRespectするところから。その最初の一歩を踏み出すのはあなたなのです。

▼「他者の関心ごと」に関心を寄せる

「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること」

▼もしも「同じ種類の心と人生」を持っていたら

私たちは主観から逃れることはできません。そして、当然他者になることもできない。でも、他者の目に写るものを想像し、耳に聞こえる音を想像することはできます。
まずは「もし私がこの人と同じ種類の心と人生を持っていたら?」と考える。そうすれば、「きっと自分も、この人と同じような課題に直面するだろう」と理解できるはずだ。さらにそこから「きっと自分も、この人と同じやり方で対応するだろう」と想像することができるはずだ。

共感とは、他者に寄り添うときの技術である、態度。技術である限り、身につけることができる。

▼勇気は伝染し、尊敬も伝染する

アドラーは言う
「臆病は伝染する、そして勇気も伝染する」
始めるのはあなたです。理解者がいなくとも、賛同者がいなくとも、まずはあなたが松明に火を灯し、勇気を、そして尊敬を示さなければいけません。その松明で明るくなるのは、せいぜい半径数メートルでしょう。誰もいない、一人きりの夜道に見えるでしょう。しかし、あなたの掲げた火は、何百メートルも離れた誰かの目にも届きます。あそこに人がいる、あそこにあかりがある、あそこにいけば道があると。

▼あなたの「今」が過去を決める

人間は誰もが「わたし」という物語の編纂者であり、その過去は「今のわたし」の正当性を証明すべく、自由自在に書き換えられていく」
記憶については、人は過去に起こった膨大な出来事の中から、今の「目的」に合致する出来事だけを選択し、意味づけを施し、自らの記憶としている。逆に言うと、今の「目的」に反するもの出来事は消去する」
そのケースに置かれた時に、人は過去を変える。
つまりゆっくりとそのフェーズにその人が入るまで待つ。

▼悪いあの人、可哀想な私

三角柱を使ってカウンセリング:「可哀想な私」「悪いあの人」「これからどうするか」
過去の出来事に縛られ、不可侵にトラウマとしている人がいる。
これは過去に縛られているのではありません。その不幸に言え踊られた過去を、自らが必要としている。
悲劇という安酒に酔い、不遇なる「いま」の辛さを忘れようとしている。

カウンセリングに来る人の話は大概「悪いあの人」「可哀想な私」の二つしかない
でも、本来語り合うべきは「これからどうするか」
「悪いあの人」「可哀想な私」の話はそこに語り合うべきことが存在しないから聞き流す。
「目の前にいるあなた」をしれば十分だし、原理的に私は「過去のあなた」など知りようがない。

▼褒めてはいけない、叱ってもいけない

大人たちのやるべきことはただ一つ。知らないのであれば教える。そして教えるにあたって、叱責の言葉はいらない。その人は悪事を働いているのではなく、ただ知らなかっただけ。

▼問題行動の「目的」はどこにあるのか

◎問題行動の第一段階 「賞賛の要求」
彼らの目的は、あくまでも「褒めてもらうこと」であり、さらにいいえば「共同体の中で特権的な地位を得ること」
彼らは「いいこと」をしているのではありません。ただ「褒められること」をしているだけなのです。
だから、「褒めてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」のだし、「罰を与える人がいなければ、不適切な行動もとる」というライフスタイル(世界観)を身につけていく。
さらに周囲の期待する「いい子」であろうとするばかりに、カンニングや艤装工作などの不正行為に出てしまうのも、この段階の特徴。

我々は、彼らの「行為」だけに目を向けるのではなく、その「目的」を見定めなければいけません。
その中で存在価値があるよということを伝えていく。

◎問題行動の第二段階は「注目喚起」
せっかくいいことをしたのに褒められない。学級の中で特権的な地位を得るまでには至らない。あるいはそもそも「褒められること」をやり遂げられるだけの勇気や今季が足りない。そんなとき、人は「褒められなくてもいいから、とにかく目立ってやろう」と考える。
この段階における子どもたちの行動原理は「悪くあること」ではなく「目立つこと」。
学業のように正攻法では上手くいかないから、別の手段によって「特別な私」になろうとする。=「自分の居場所」を確保するため

◎問題行動の第三段階 「権力争い」
つまり「反抗」。
周囲の人を口汚い言葉で罵って挑発する。癇癪を起こして暴れることもありますし、万引きや喫煙に走るなど、平然とルールを破る。
一方、「不従順」」によって権力争いを挑んでくる。
どんなに言っても、拒絶したり、無視を決め込む。ただ不従順を貫くことで自らの「力」を証明したいだけ。

このような人を相手にするときは?
相手と同じコートに立っていてはいけない。
すぐさま彼らのコートから退場する。
叱責するのはもちろんのこと、腹立たしそうな表情を浮かべるだけでも、権力争いのコートに立ってしまう。


◎問題行動の第四段階 「復讐」
意を決して権力争いを挑んだのに、歯が立たない。勝利を収めることができず、特権的な地位を得ることもできない。相手にされず、敗北を喫してしまう。そうして戦いに敗れた人は、一旦引き下がった後「復讐」を画策する。
かけがえのない「私」を認めてくれなかった人、愛してくれなかった人に、愛の復讐をする。

賞賛の要求、注目喚起、そして権力争い。
これらは全て「もっと私を尊重してほしい」という愛を乞う気持ち。
ところが、そうした愛の希求が叶わないと知った瞬間、人は一転して「憎しみ」を求めるようになる。
私を愛してくれないことは、もうわかった。だったらいっそ、憎んでくれ。憎悪という感情の中で、私に注目してくれと考えるようになる。

復讐の段階に突入した子どもたちは誰からも讃えられません。
徐々に孤立するが、それでもなお「憎まれてる」という一点で繋がろうとする。

権力争いの段階にある「子どもたち」は、正面から正々堂々と戦いを挑んでくる。暴言混じりの挑発も彼らなりの正義を伴った直接的なもの。
一方、復讐の段階に入った子どもたちは正面切って闘うことを選ばない。彼らは「悪いこと」を目論むのではなく、ひたすら「相手が嫌がること」を繰り返す。

ストーカーもそうだし、自傷行為や引きこもりもアドラー心理学では「復讐」に一環と考えれている。
自らを傷つけ、自らの価値を毀損していくことで、「こんな自分になってしまったのは、お前のせいだ」と訴える。

ここまでくると、自分にできることはない。第三者に求めるしかできない。

◎問題行動の第五段階 「無能の証明」
「そんなに関わられるのは大迷惑!ほっといてほしい」
「これ以上私に期待しないでくれ」という思いが「無能の証明」。
人生に絶望し、自分のことを心底嫌いになり、自分には何もできないと信じ込むようになる。そしてこれ以上の絶望を経験しないために、あらゆる課題から逃げ回るようになる。

「できるかもしれない」と課題に取り組んで失敗するぐらいなら、最初から「できるはずがない」と諦めた方が楽。
そこで彼らは、自分がいかに無能であるか、ありとあらゆる手を使って「証明」しようとする

▼暴力という名のコミュニケーション

喧嘩が怒ったとき、あなたのやるべきことは、彼らの「目的」に注目し、彼らとともに「これからどうするか」を考えること。

言語によるコミュニケーションは合意点にたどり着くことを目的にしている。
しかし、これには時間がかかるし自分勝手な要求は通らなくなる。
そこで議論では勝ち目がないと思った人はどうするか?
最後に暴力というコミュニケーション手段を選択する。

▼叱ることと怒ることは同義

誰かと議論をしていて、雲行きが怪しくなってきたり、劣勢に立たされたりすると暴力とはいかなくても、声を荒げたり、机を叩いたり、また涙を流すなどして相手を威圧し、自分の主張を押し通そうとする人がいる。
これらの行為もまた、コストの低い「暴力的」なコミュニケーションだと考えねばならない。

子どもたちの問題行動を前にしたとき、親や教育者は何をすべきか?
アドラーは「裁判官の立場を放棄せよ」という。あなたは裁判を下す特権など与えられていない。

叱責を含む「暴力」は、人間としての未熟さを露呈するコミュニケーションである。
叱責を受けた時、暴力的行為への恐怖とは別に、「この人は未熟なのだ」という洞察が、無意識のうちに働く。そんな人を尊敬するのは難しい。
アドラーは「怒りとは、人と人を引き離す感情である」という。

そんな時、「変えられないもの」に執着するのではなく、眼前の「変えられるもの」を直視する

▼自分の人生は、自分で選ぶことができる

カントの言葉
「人間が未成年の状態にあるのは、理性がかけているのではない。他者の指示を仰がないと自分の理性を使う勇気も持てないからなのだ。つまり人間は自らの責任において未成年の状態にとどまっていることになる」

教育する立場の人間、そして組織の運営を任されたリーダーは、常に「自立」という目標を掲げなければなりません
カウンセリングも同じです。我々はカウンセリングをするとき、相談者を「依存」と「無責任」の地位に置かないことに細心の注意を払います。
例えば、相談者に「先生のおかげで治りました」と言わせるカウンセリングは、何も解決していない。言葉を返せばこれは「私一人では何もできない」という意味だから。

つまり教育者も、「先生のおかげで卒業できました」とか「先生のおかげで合格できました」と言わせる教育者は、本当の意味での教育に失敗している。
生徒たちには、自らの力でそれを成し遂げたと感じてもらわないといけない。

教育者は孤独な存在です。誰からも褒めてもらえず、労を労われることもなく、みんな自力で巣立っていく。感謝されることのないままに
貢献感の中に幸せを見出す。

例えば、子供から「遊びに行ってもいい?」と聞かれる。この時「もちろん、いいよ」と許可を与えたり、「宿題をやってからね」と条件をつける人がいる。これはいずれも、子どもを「依存」と「無責任」の地位におく行為。
そうではなく、「それは自分で決めていいんだよ」と教えること。
自分の人生は、日々の行いは、全て自分で決定するものなのだと教えること。そして決めるにあたって必要な材料、例えば知識や経験があれば、それを提供していくこと。それが教育者のあるべき姿
なのです。

子どもたちの決断を尊重し、その決断を援助する。そしていつでもその援助する用意があることを伝え、近すぎない、援助ができる距離で見守る。例えその決断が失敗に終わっても、子どもたちは「自分の人生は、自分で選ぶことができる」という事実を学んでくれるでしょう。

▼「褒めて伸ばす」を否定せよ

なぜ教育現場で「褒めてはいけない」という原則を貫くのか。褒めたら喜び、伸びる子どもたちがいるのに、どうして褒めてはいけないのか。褒めることによって、あなたがどんな危険を冒しているのか。

▼褒賞が争いを生む

ルールを破れば厳しく罰せられ、ルールに従えば褒められる。そして承認される。つまり人々は、リーダーの人格や思想信条を支持しているのではなく、ただ、「褒められること」や「叱られないこと」を目的として、したがっている。
「褒められること」を目的とする人々が集まると、その共同体には「競争」が生まれます。他者が褒められれば悔しいし、自分が褒められれば誇らしい。いかにして周囲よりも先に褒められ、たくさん褒められるか。さらには、いかにしてリーダーの寵愛を独占するか。こうして共同体は、褒賞を目指した競争原理に支配されていくことになる。

ライバルはいてもいい。しかし、そのライバルと競争する必要はひとつもないし、競争してはいけない。

▼共同体の病

人生をマラソンのように考えてみましょう。自分の隣をライバルが並走している

これ自体は励みになったり、心強く感じたりするわけなので何も問題ない。しかし、そのライバルに「勝とう」とした瞬間、様相は一変する。
当初、「完走する」や「速く走る」だったはずの目的が「この人に勝つ」という目的にすり替わってしまう。盟友だったはずのライバルが、打倒すべき敵に変わってしまう。そして勝利をめぐる駆け引きが生まれ、場合によっては妨害や不正行為にまで及んでしまう。レースが終わった後も、ライバルの勝利を祝福することができず、嫉妬や劣等感に苦しめられる。

民主主義とは、競争原理ではない、「協力原理」に基づいて運営される共同体

一人の問題ではなく、そのチーム全体に蔓延する競争原理に問題。

▼人生は「不完全」から始まる

我々人間は子ども時代、一人の例外もなく劣等感を抱えて生きている。

人間にとって孤立ほど恐ろしいものはありません。孤立した人間は、身の安全が脅かされることにと止まらず、心の安全までも脅かされてしまう。一人では生きていけないことを本能的に熟知している。ゆえに我々はいつも、他者との強固な「繋がり」を希求し続けている。
全ての人には共同体感覚が内在し、それは人間のアイデンティティと深く結びついている。

共同体感覚は「身につける」ものではなく、己の内から「掘り起こす」ものであり、だからこそ「感覚」として共有できるのです。
「共同体感覚は、つねに身体の弱さを反映したものであり、それとは切り離すことができない」アドラー。

▼「私であること」の勇気

アドラー心理学では、人間の抱える最も根源的な欲求は、「所属感」だと考えます。つまり孤立したくない。「ここにいてもいいんだ」と実感したい。孤立は社会的なしに繋がり、やがて生物的な死にも繋がる。

共同体の中で特別な地位を得るということは「その他大勢」にならないこと。
いつ、いかなる時でも自分だけの居場所が確保されていなければならない。「ここにいてもいいんだ」という所属かんに揺らぎがあってはならない。

承認欲求には終わりがない
褒められることでしか幸せを実感できない人は、人生最後の瞬間まで「もっと褒められること」を求めます。その人は「依存」の地位に置かれたまま、永遠に求め続ける生を、永遠に満たされることのない生を送ることになる

解決方法としては、自らの意思で、自らを承認するしかない
「わたし」の価値を、他者に決めてもらうことは依存。
一方、「わたし」の価値を自らが決定すること。これを自立と呼ぶ

「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたし」であることに価値を置く。それが本当の個性。
「私であること」を認めず、他者と自分を引き比べ、その「違い」ばかり引立たせようとするのは、他者を欺き、自分に嘘をつく生き方に他なりません。

▼その問題行動は「あなた」に向けられている

アドラー心理学では、人間のあらゆる言動を対人関係の中で考える。
あなたの学級に問題行動を繰り返す生徒がいる。その問題行動は誰に対して向けられたものなのか?それは「あなた」です。
その生徒は、「あなたに見せる顔」の仮面を被ったときに、他の誰でもない「あなた」に向かって、その問題行動を繰り返しているのです。
=それはあなたに助けを求めているということ。すなわち教室に居場所を求めている。あなたは尊敬を通じて、その居場所を示していかなければいけない。

▼なぜ人は「救世主」になりたがるのか

◎子供は叱ってはならない
なぜなら、叱ることは互いの「リスペクト」を毀損する行為であるから。怒りや叱責は、それほどにもコストが低い、未熟で暴力的なコミュニケーション手段である。

◎褒めてもいけない
褒めることは共同体の中に競争原理を生み、子どもたちに「他者は敵である」というライフスタイルを植え付けることになる。

◎自立を妨げる
叱ること、褒めること、すなわち賞罰は子供の「自立」を妨げる。なぜなら賞罰は、子どもを自分の支配下に置こうとする行為であり、それに頼る大人たちは、心のどこかで子供の「自立」を恐れている

他者を救うことによって、自らが救われようとする。自らを一種の救世主に仕立てることによって、自らの価値を実感しようとする。これを払拭できない人が、しばしば陥る優越コンプレックスの一形態であり、一般的に「メサイヤ・コンプレックス」と呼ばれている。

▼全ての喜びもまた、対人関係の喜びである

全ての悩みが対人関係であるのなら、その他者との関係を断ち切って仕舞えばいいのか?他者を遠ざけ、自室に引きこもっていればいいのか?
それは違う。なぜなら人間の喜びもまた、対人関係から生まれる。「全ての悩みは対人関係の悩みである」という言葉の背後には、「全ての喜びもまた、対人関係の喜びである」という幸福の定義が隠されている。

▼いかなる職業にも貴賎はない

分業社会においては「利己」を極めると、結果としての「利他」に繋がっていく。利己心を追求した先に「他者貢献」がある

▼大切なのは与えられたものをどう使うか

自らの価値観を押し付けることなく、その人が「その人」であることを尊重する。なぜそんなことができるのかといえば、その人のことを無条件で受け入れ、信じているから。すなわち、信頼しているからです。
他者のことを「信頼」できるか田舎は、他者のことを尊敬できるか否かにかかっている。

アドラーは、「大切なのは、何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである」「どんな相手でも、「尊敬」を寄せ、「信じる」ことはできます。それは環境や他対象に左右されるものではなく、あなたの決心一つによるもの。

▼先に「信じる」こと

例えその人が嘘を語っていたとしても、嘘をついてしまうその人ごと信じる
本当の信頼とは、どこまでも能動的な働きかけなのです。
自分にできることは、ただ自分が語りかける相手を信じること。
私は「わたし」を信じてほしいと思っている。私を信じ、アドラーの言葉に耳を傾けてほしいと思っている。ゆえに私は、先にあなたのことを信じるのです。たとえあなたが信じなくても。
あなたがわたしを信じようと信じまいと、わたしはあなたを信じる。信じ続ける。それが「無条件」です

青年:今はいかがですか?私はあなたを信じていませんよ。これだけ強く拒絶され、ひどい言葉で罵倒されてもなお、私を信じきれていますか?
哲人:もちろんです。3年前から変わらず、あなたのことを信じています。そうでなければ、これだけ真剣に、これだけの時間をかけて語り合うことはできません。他者のことを信じていない人は、正面切った議論さえもできない。いみじくもあなたがおっしゃったように「この人になら、腹を割って全てを話しても大丈夫だ」と思えないのです。

▼人と人とは、永遠に分かり合えない

新約聖書の「ルカによる福音書」
「汝の隣人を、汝自らのごとくに愛せよ」
自分を愛することが出来なければ、他者を愛することもできない。自分を信じることが出来なければ、他者を信じることもできない。

自己中心的な人は、「自分ことが好きだから」、自分ばかり見ているのではありません。実相は全く逆で、ありのままの自分を受け入れることができず、絶え間なき不安にさらされているからこそ、自分にしか関心が向かないのです

他者についても同じです。たとえば、喧嘩別れした恋人のことを思い出すとき。しばらくは相手の嫌なところばかりが浮かんでくるものです。それはあなたが「別れてよかったのだ」と思いたいからであり、自分の決心に迷いが残っている証拠なのです。自分自身に「別れてよかったのだ」と言い聞かせないと、心が揺らぎそうになる。そんな段階だと思ってください。
そしてもし、かつての恋人の美点が思い出されたとしたら、それは積極的に嫌う必要がなくなったこと、その人への思いから解放されたこと意味します。
いずれも「相手のことが好きか嫌いか」が問題なのではなく、「今の自分を好きなのか」が問われているのです。

アドラーの原則原理
「何が与えられているのかではなく、与えられたものをどう使うか」

マザー・テレサは「世界平和のために、我々は何をすべきですか?」と問われこう答えた。
「家に帰って、家族を大切にしてください」。
アドラーの共同体感覚も同じ。世界平和のために何をするのかではなく、まずは目の前の人に、信頼を寄せる。目の前の人と、仲間になる。そうした日々の積み重ねがいつか国家間の争いもなくしていく。

▼愛は「落ちる」ものではない

「落ちる」だけの愛なら、誰にでもできます。意思の力によって、何もないところから築き上げるものを「愛」という。

▼「愛される技術」から「愛する技術」へ

実際に手に入れたら、半年としないうちに飽きてしまう。それを獲得し、所有し、征服したかっただけ。人間も、本質的には物欲と同じ。
アドラーは、二人が結ばれた後の「関係」に注目している。
たとえば激しい愛の末に結婚したとしても、それは愛のゴールではない。結婚は、二人の愛が本当の意味で試されるスタート地点です。

アドラーが一貫して解き続けたのは能動的な愛の技術、すなわち「他者を愛する技術」だった
他者に愛されることは難しい。けれども、「他者を愛すること」は、その何倍も難しい課題。

▼愛とは「ふたりで成し遂げる課題」である

アドラーはいう。
「われわれは、ひとりで成し遂げる課題、あるいは20人で成し遂げる仕事については、教育を受けている。しかし、ふたりで成し遂げる課題については、教育を受けていない」と。

「一人で成し遂げる課題」と「仲間たちと成し遂げる課題」については、家庭や学校で十分な教育を受けている。
ところが「ふたりで成し遂げる課題」については、なんの教育も受けていない。
つまり、愛とは「ふたりで成し遂げる課題」である。しかし我々は、それを成し遂げるための「技術」を学んでいない

▼人生の主語を切り替えよ

われわれはみな、「わたしは誰かの役に立っている」と思えた時にだけ、自らの価値を実感することができる。

利己的に「私の幸せ」を求めるのではなく、利他的に「あなたの幸せ」を願うものでもなく、不可分なる「わたしたちの幸せ」を築き上げること。それが愛なのです。

「わたし」や「あなた」よりも上位のものとして「わたしたち」を掲げる。人生の全ての選択について、その順序を貫く。
「わたし」の幸せを優先させず、「あなた」の幸せだけに満足しない。「私たち」のふたりが幸せでなければ意味がない。「ふたりで成し遂げる課題」とはそういうこと。

我々は生まれてからずっと、「わたし」の目で世界を眺め、「わたし」の耳で音を聞き、「わたし」の幸せを求めて人生を歩みます。これは全ての人がそうです。しかし、本当の愛を知った時、「わたし」だった人生の主語は、「わたしたち」に変わります。幸福なる生を手に入れるためには、「わたし」は消えて無くなるべきなのです。

▼自立とは、「わたし」からの脱却

なぜ、愛は幸福につながるのか?
愛が「わたし」からの解放だから。

自分の弱さや不幸、傷、不遇なる環境、そしてトラウマを「武器」として、他者をコントロールしようと目論みます。心配させ、言動を束縛し、支配しようとする。

しかしながら、いつまでも「世界の中心」に君臨することはできない。世界と和解し、自分は世界の一部なのだと了解しなければならない。

つまり自立とは、「自己中心性からの脱却」。
甘やかされた子ども時代のライフスタイルから、脱却しなければならない。
愛を知り、人生の主語が「わたしたち」に変わること。これは人生の、新たなスタートです。たった二人から始まった「わたしたち」は、やがて共同体全体に、そして人類全体にまでその範囲を広げていくでしょう

▼その愛は「誰」に向けられているのか

子どもは非常に優れた観察者です。自らの置かれた環境を考え、両親の性格・成功を見極め、兄弟がいればその位置関係を測り、それぞれの性格を考慮し、どんな「わたし」であれば愛されるかを考えた上で、自らのライフスタイルを選択する。

泣き、怒り、叫んで反抗する子どもは、感情をコントロールできないのではありません。むしろ十分すぎるほど感情をコントロールした結果、それらの行動をとっているのです。そこまでしなければ親の愛と注目を得られない。ひいては自分の命が危うくなると。

「愛されるためのライフスタイル」とは、いかにすれば他者からの注目を集め、いかにすれば「世界の中心」に立てるかを模索する、どこまでも自己中心的なライフスタイルなのです

▼人は「愛すること」を恐れている

フロムの言葉
「人は意識の上では愛されないことを恐れているが、本当は、無意識の中で、愛することを恐れているのである」と。
「愛するとは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分を委ねることである」と。

フロムの語る「愛すること」は、その担保をいっさい儲けません。相手が自分のことをどう思っているかなど、関係なしに、ただ愛するのです

愛することはあなたの課題です。しかし、相手があなたの愛にどう応えるか。これは他者の課題であって、あなたにコントロールできるものではありません。あなたにできることは、課題を分離し、ただ自分から先に愛すること、それだけです。

▼愛とは「決断」である

結婚とは、「対象」を選ぶことではありません。自らの生き方を選ぶことです。
フロムの言葉。
「誰かを愛するということは、単なる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である

運命とは自らの手で作り上げるもの。

やるべきことは一つ。
そばにいる人の手を取り、今の自分にできる精一杯のダンスを踊ってみる。運命はそこから始まる。

▼ライフスタイルを再選択せよ

愛の関係に待ち受けるのは、楽しいことばかりではありません。引き受けなければならない責任は大きく、辛いこと、予期せぬ苦難もあるでしょう。それでもなお、愛することができるか。どんな困難に襲われようとこの人を愛し、共に歩むのだという決意を持っているか。その思いを約束できるか。

フロムの言葉
「愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかにしか愛することができない」と。
「愛する勇気」=「幸せになる勇気」

われわれは他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放されます。他者を愛することによってのみ、自立をなしえます。そして他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどり着く。
愛を知り、「わたしたち」を主語にできるようになれば、変わります。生きている、ただそれだけで貢献しあえるような、人類の全てを包括した「わたしたち」を実感します。
「愛し、自立し、人生を選べ」。

▼シンプルであり続けること

世界はシンプルであり、人生もまた同じである。しかし「シンプルであり続けることは難しい」と。そこでは、「なんでもない日々」が試練になる。
本当に試されるのは、歩み続ける勇気

人は別れるために出会う。全ての出会いと全ての対人関係において、ただひたすらに「最良の別れ」に向けた不断の努力を傾ける。それだけ。
いつか別れる日がやってきたときに「この人と出会い、この人とともに過ごした時間は、間違いじゃなかった」と納得できるよう、不断の努力を傾けるのです。つまり「いま、ここを真剣に生きる」ということ。

われわれは未来が見えないからこそ、運命の主人になれる。


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