ニーチェガイド①

◇不健全な道徳が蔓延する近代社会 ニーチェ「道徳の系譜」

ところで、西欧の近代社会をキリスト教社会の延長上に位置するものと捉え、これを徹底的に批判した人物として、ニーチェを無視するわけにはいきません。しかも、ニーチェの近代社会批判は、まさに先の論点にかかわるものです。ですから議論がここまでくれば、どうしてもニーチェに触れておく必要があるでしょう。

近代社会では、人間は近代的な道徳を身につけ、自由や平等を実現していく。しかし、その自由や平等はいわば独房のようなかたちで実現されており、独房の中でみんな平和で安全に暮らしている。だが、この独房で飼いならされたような自由や平等や平和は、もはや人間の生命力といいますか、活力を奪い取ってしまっている。ニーチェはまさに、そうした近代社会に、いいようのない嫌悪感をもっていたのです。

そこで、本書と関係する点において飲み、ニーチェの主張のポイントをお話しておきましょう。ニーチェは1844年に生まれ、ちょうど世紀の変わり目の1900年に死んでいますが、最後の十年余りはもうほとんど廃人同然です。ですから、彼が実際に活動した期間は案外に短いんですが、狂気に陥る少し前、1880年代が彼の最盛期であり、短いけれども刺激的な本を次々と書いています。

近代社会批判、キリスト教社会批判ということでいえば、彼の議論がいちばんまとまったかたちで書かれているのは、85年の『善悪の彼岸』と87年の『道徳の系譜』でしょう。とくに後者は、彼自ら『善悪の彼岸』の主張を解説したもので、この『道徳の系譜』だけは、アフォリズムの形式をとらず、一応は論文ということになっている。三つの論文からなっていますが、これが彼の思想を集約的にいい表したものでしょう。

このなかでニーチェがどういうことを述べているかというと、最初にこのような疑問を提起します。道徳の起源はいったい何なのか。道徳というのは善と悪です。ある行為は善であり、ある行為は悪である。その基準を与えるものです。その基準はいったいどこから出てきたのか。

今日、われわれは、何か人に喜ばれることをしたとき、「善いこと」をしたといいます。たいして、人に嫌がられることをすれば、「悪いこと」をしたという。これは、「善(ドイツ語でグート、英語でグッド)」と「悪(ベーゼ、バッド)の判断の基準は、行為の主体ではなく、好意の受け手側にあることを意味しています。行為の善悪を決めるものは、その行為の受け手の満足といういうことになる。

しかし、善悪の起源はもともとそうではなかったとニーチェは言います。「善」とは、本来は「高貴なもの」「優秀なもの」を意味していた。だから「善(グート)」に対立するのは、「劣悪なもの」「卑小なもの」を含意している「悪(シュレヒト)」であった。しかし、シュレヒトは、元来は「平民的な」「素朴な」というぐらいの意味であったのが、「善=優れた」との対比で「悪=劣った」と変形されたものである。さらに、キリスト教的な道徳観のなかで、この「優れたもの」と「劣ったもの」の対比である「善(グート)」と「悪(シュレヒト)」は、現在、われわれが使うような「善=他人に喜ばれること」「悪=他人に嫌がられること」といった対比に変化してきたのである。そして、近代社会もその延長とニーチェは考える。

これはどういうことか。本来、善悪の価値評価を決めるのは、行為の受け手ではなく、行為の主体である「優れた者」だということです。ここにはニーチェ独特の思想があって、人間には、高貴なものを理解し、高貴なものを実現できる者と、そうではない者がいる。つまり、高貴な者とそうでない者という意味での強者と弱者がいる。

もっとも、これは別にニーチェがいっていることではなくて、もともとはヘーゲルが主張したことであり、ある意味で西欧思想史のひとつの考え方です。人間のなかにはものすごく力をもった、なにかすごいことを実現できる者と、そんなことはできない者がいる。こういう考え方はギリシャ哲学とりわけプラトンにもありますから、何かとんでもないことを言っているわけではありません。ただ「強い者」や「優れた者」が何を意味するのかは簡単に言ってしまうことはできません。少なくともそれは他者をねじ伏せてしまう暴力や権力を持つということではない。優れたものを知る能力をもつ者なのです。

そこで強者、すなわち優れた者が価値の基準をつくり出し、弱者、つまり劣った者は、それに従う。これが人間の社会だということですね。ところが、弱者、卑俗な者は、強者による支配に対する非常に強い反感、つまり「ルサンチマン」をもつようになります。「ルサンチマン」というのは劣等感を根底にもった悪意、反感というような意味ですね。

そこで、弱者はそのルサンチマンに駆られ、集団で力を合わせて強者を倒し、自分たちが強者を支配しようとする。その図式はすこぶるヘーゲル的です。あるいは、フロイトのエディプス・コンプレックス、つまり子どもによる父親殺しをも連想させますね。強者を打倒して弱者が支配を握ると、弱者は「善」と「悪」の観念を、もはや「高貴なもの」と「卑屈なもの」とは見ず、今日いうような道徳的に正しいものと道徳的に間違ったものへと価値転換してしまった。ここに、現代のわれわれがなじんでいる道徳観や倫理観が生まれてくるわけです。

ニーチェによると、強者の価値は、自分自身の基準に従ってつくり出されたものだが、弱者の道徳は、自分以外の他者、自分より優れたものに対する「否」によってつくりだされたものである。これは不健全な道徳で、近代人は、基本的に不健康、つまり病気だと彼はいう。それを生みだしたのは道徳上の奴隷一揆だというわけです。

とすると、今日の道徳は、弱者が強者を倒して支配的な位置を確保することから生み出された、いわば弱者の自己正当化ということになってしまいます。近代的道徳は、弱者のルサンチマンの結果だということです。弱者は、強者を打倒して支配を確立しようとしたとき、自分たちには道徳的な正しさがあるといった。「正義」があるということですね。しかし、それはあくまで弱者のルサンチマンの産物であり、言いかえれば、弱者の権力欲にほかならないわけです。

人間は、これは強者も弱者も常に権力欲――「権力への意志」によって動かされている。ただ道徳とは、力への意志が露骨に表出したものではなく、弱者の権力への意志を隠すためのカムフラージュ、欺瞞的な見せかけである。それが近代市民社会の道徳であるとニーチェは断罪するのです。ですから、ニーチェに従えば、近代市民社会の自由や平等、人間の基本的権利や愛好的精神といったものは、基本的に弱者のルサンチマンと権力欲が生み出した欺瞞だというほかありません。

(つづく)

佐伯啓思「西欧近代を問い直す 人間は進歩してきたのか」

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