ネーブル・ヒロシ

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終身刑導入で思考停止が起きる?

藤井 話の位相がずれますけれども、死刑が廃止されて、終身刑が導入されて、天井も決まったというふうになった場合、ぼくも自動的にそれが増えると思います。 現在は天井が死刑ですが、同じ終身刑ができたり、実質的には今三十年以上は出られない無期懲役が最高刑になったら、上からも下からも自動的にそこにどんどん放り込まれていく可能性がある。そうすると、逆に森さんの言い方をお借りすると、思考停止みたいなことが起きるんじゃないかなと。 これは森さんが怒る言い方かもしれないけど、死刑があるゆえに、

    • 「冤罪あるから死刑廃止を」ではない

      藤井 死刑制度は残した方ほういいとぼくは思っていますが、いまの裁判員制度がはじまって死刑判決を出すことに対して裁判員がそれこそ精神を病むようなストレスを感じてしまうことがあるだろうし、激しい逡巡があるはずなのに、評議内容を人に言っちゃいかん、墓地まで持って行けみたいなことを強制されるわけでしょう。そういった状況に司法全体が耐えうるかどうか。この国が裁判員制度という「国民にひらかれた」司法のもとで死刑という制度を温存することができるかどうか、試金石になるかもしれない。 たとえば

      • 大きすぎる殺人事件報道の比重

        森 日本のメディアは事件報道の割合がとても多いという話に戻します。もちろんこれもケース・バイ・ケースです。大きく伝えることに社会的な公益性がある事件だってたくさんある。 でもメディアは有限です。テレビだったらニュースの時間は決まっているし、新聞は死面の面積が決まっている。つまり何かを報道するということは、何かが報道されないということと同義であるということです。 仮に事件の詳細を報道することを遺族が望んでいたとしても、その事件への比重が高くなればなるほど、他の報道が消えてしまう

        • 「事実は切り取り方次第」の自覚を

          藤井 取材手法というか、被害者遺族について意見を交換してみたいのですが、これも前出の坂上香織さんのお書きになったものから引用させていただきます。 坂上さんはテレビ取材で多くの被害者遺族に接してきたと前書きをされて、「取材者が無意識のうちに対象者の声を誘導してしまう危険性や、取材者の意図を越えて「被害者」の感情がほとばしってしまう現実にも取材したときのことを次のように振り返られています。 ***[夫婦は、事故からまだ数ヶ月しか経過していないにもかかわらず、常に冷静だった。二度

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          被害者遺族も求めている「個別性」

          藤井誠二 「個別性」みたいなものは、被害者の方も加害者の方も、なるべく細かく、死刑とか、殺人とか、被害っていう抽象概念からなるべく社会を遠ざけるような、そういうところにいかないようにするっていうのはとても大切だと思う。それはやっぱりメディアの仕事であるし。 一個一個ってすごく大事なことだと思うんです。『論座』(2008年3月号」)に廃止論者の森千香子さん(南山大学講師・当時)が、死刑存置をいうとき、死の一個一個の実感がないということを書いておられます。死刑とは抽象概念ではなく

          被害者遺族も求めている「個別性」

          そもそもの死刑の意味とはなんですか

          森達也 ・・・・・・彼らが死ぬことを恐れていないのに死刑の意味はあるのだろうか、という藤井さんは悩んでいる。これを言い換えれば、彼らが死を恐れているのなら、死刑の意味はあるということになる。そんな煩悶を、いま藤井さんはしているわけですよね。ならば聞きたい。そもそもの死刑の意味とはなんですか。死刑は誰のためにあるのですか。何のためにあるのですか。 「そういう人間に対して効き目がないだろうか」と藤井さんはいま言ったけれど、いったいどんな効き目ですか。なんのための効き目ですか。抑止

          そもそもの死刑の意味とはなんですか

          数と個体

          バッタ、ミツバチ、アリ、ハエの数、大量生産方式のような数、彼らの闘いや本能的な行動は、主観的な感情や体験の現れというより、一個の知能の現れのように思える。われわれは彼らの魂は表面的な出来事の舞台にすぎないと言いたいくらいだ。虫たちの排卵、誕生、労働、性癖、共同体気質、戦争、死は、きわめて型どおりに指示されているように見える。彼らの英雄的行為はもっぱら軍隊式だ。手足を失っても苦しむ様子はない。体を半ば押し潰されながらも、完全に押し潰されてしまった仲間を食料か獲物として引きずって

          ケータイメール

          ●日本におけるケータイメールの優勢 先行研究の多くが指摘するように、日本のケータイの遣われ方の特徴は「通話ではなくメールの理容が突出している点」にある。すなわち、日本の若者立ちは、写真や絵文字を含めたメッセージを、読み、書き、送るためにケータイを頻繁に利用している。 三宅和子の2000年の調査では、音声での通話が一日平均3.3回であるのに対して、メールは6.9回と通話の約二倍であった。2001年の調査になると、通話が平均1.72回に減ったのに、メールは9.98回と増え、比

          電話をめぐって

          ●「もしもし」の緊急性 「もしもし」という電話で使う固有の言葉は、ある意味で鋭く、電話空間の基本的な特質を象徴している。 普通のひとびととが出会うときに、「こんにちは」とか「はじめまして」という。知り合いであれ初対面であれ、「もしもし」とは決して言わないだろう。目の前にいる話し相手にあえて「もしもし」というとすれば、それは「距離」をことさらに強調した、意地の悪いからかいか、ある種の信頼関係のもとでのジョーク以外のなにものでもない。話芸の用語でいえば、「ツッコミ」である。状

          電話をめぐって

          否定と肯定の逆転

          「やばい」の反転のように、否定と肯定とが逆転し、かえって強調の意味をそえるようになった例は、それほどめずらしいことではない。日本語の空間において、歴史的には何度も、また幾重にもくりかえされた。 こうした副詞や形容詞による変容も、言葉のネットワークとしての特性と、たぶん深く関連しているように思う。意味がネットワーク上の「位置」のようなものであれば、その結びつきを逆にたどろうと、位置関係それ自体は変わらないともいえる。むしろ慣れすぎて新鮮味がなくなった意味のつながりを、逆にひね

          否定と肯定の逆転

          不幸の姿

          彼女は彼に同情した。彼女は彼を信じない。彼が分からない。それでいながら彼の心を満たし補うために彼を完全に理解したいと思う。彼女は彼と同じように快楽を好むが、快楽をもっと遊びとして好んでいる。愛情の激しさで彼に劣っていると感じ、それを嘆いている。彼らが知り合ったとき、彼女はもはや一般市民の偏見を気にしないですむ年齢に達していた。彼女は何人かの男との同棲生活を経験していた。彼女は大切にされた。熱愛された。時おり虐待された。彼女は時が満ちたら別れることを学ばなければならなかった。そ

          人間の掟

          驚き、感心しながらファルテンはエーギルを見た。 「おまえはトゥータインに弟子入りしたね」とようやく彼は言った。「いろいろ勉強したね。神学者たちもこの難問には手を捩(よじ)ることだろう。無駄使いされた無用な精子は、それがなり得たであろう姿で天国へさすらう。素晴らしい考えだ。どうしてそうじゃないと言えるだろう?あの場所にかつて生きていた十億の二十億倍の魂を収容する余地があるならば、二千億倍の魂でも混雑しないだろう。宇宙はあらゆる天文学的な数字に耐えるのだ。ましてや神性となれば。わ

          くらげのように

          岸上の日記に、5月11日(新安保の強行採決と、それに対する激しい抗議行動のあった翌日)に「再読」と記されている『戦後世代の政治思想』の冒頭で、吉本隆明は次のように述べている。 「現在、私たちは、大きく膨らんだ国家独占社会で、クラゲのように浮きつ沈みつしながら生きている。足はアスファルトや土を踏みしめているが、思想はアトム化して目まぐるしい社会の現象をおうため、人間はついに社会現象そのもののようにしか存在できない。この新しい社会体験はわたしたちの周囲が、戦前よりはるかに厖大に

          戦争と殉死②

          ●大東塾の集団自決 そして、敗戦直後の東京では、三島が文中にあげている宮城前ほか二カ所で、それぞれ十余人からなる集団が、死を熱烈に追い求めたのだった。 昭和20年22日、愛宕山で尊王義軍の12人(女性も含む)が手榴弾で自爆。 同23日には皇居前で明朗会の12人(女性を含む)が拳銃、木刀、剃刀、毒薬によって自決。 同25日には代々木練兵場(後のワシントンハイツ、代々木公園)で大東塾の14人が割腹自殺。 敗戦を契機とした以上3件の集団自殺のうち、ここでは大東宿のケースについて

          戦争と殉死①

          ●三島由紀夫作品にみる戦争と自殺 赤誠隊。 市井に気を吐く政治団体の名でもなければ、浅草あたりにたむろする、やたら“自由”な不良少年の名でもない。 昭和14年、大陸での戦火の拡大と連動する形で始められた、南洋諸島の海軍飛行基地建設にかり出された囚人の集団。それがこう名付けられていた。 この赤誠隊に加わっていた二人の男が、建設現場だったテニアン島で、すさまじい自殺をやってのけた。 仮に名を松村和夫、佐々木次郎としておこう。 昭和15年4月、内地では陸軍志願兵令が公布

          天皇の問題・戦争の問題

          竹田 独断だけれど、いま僕が思っていることを言うと、加藤さんとしては、いま普通の人間が進歩か保守かというような枠ではなくて国家の問題を考えるんだったら、たとえば「天皇の人間性」とか「天皇のモラル」というようなものを考えてみたらどうか、と言っているのではないか。それはひとつの入り口であるから、そこを出発点にしたらどうかと。つまり、いきなりレフトがいいか、保守がいいか、あるいは民主主義がいいか、というのは、実はある意味で遠い考え方だ。だからむしろ、間違った戦争をしてどこかすっきり

          天皇の問題・戦争の問題