大きすぎる殺人事件報道の比重

森 日本のメディアは事件報道の割合がとても多いという話に戻します。もちろんこれもケース・バイ・ケースです。大きく伝えることに社会的な公益性がある事件だってたくさんある。
でもメディアは有限です。テレビだったらニュースの時間は決まっているし、新聞は死面の面積が決まっている。つまり何かを報道するということは、何かが報道されないということと同義であるということです。
仮に事件の詳細を報道することを遺族が望んでいたとしても、その事件への比重が高くなればなるほど、他の報道が消えてしまうわけです。日本の報道は今ですら殺人事件偏重です。だからバランスが大事だと思う。

藤井 報道被害は二次被害としていまでも問題にしなければならないのですが、「報道されない被害」という言い方があるほど、事件によってマスコミの扱い方に落差がある。
たとえば秋葉原事件によって吹っ飛んだ殺人事件はたくさんあると思うわけです。特定の事件にたいする報道は明らかに多すぎて、それによって伝えられていない事件がたくさんあります。どこもかしこもみんな同じようなことを書いて、横並びで、テレビなんてまったく新しい要素もなくて、それによってベタ記事にさえならない殺人事件ってあるんですよ。そういう意味でも不公平を感じている遺族はいるでしょうね。

森 事件だけじゃなくて、きょう国会で何が討論されたのかとか、スーダンの内戦と飢餓はどういう状況なのかとか、アフガンの復興はどんな局面を迎えたかとか、損な要素が消えてしまうわけです。日本のどこかで妻の保険金殺人事件が起きただけで。

藤井 そのとおりです。それもセンセーショナルに出ると、そこに偏ってしまって、ものことばっかりやる。その理由は明らか。他者に負けたくないため。他者がやってるのに、うちはなんでやんねえんだよみたいな。それだけやっているという問題で、報道されないというのもあると思うんです。

森 しかも一極集中がずれている。例えば秋葉原事件について、彼が携帯メールに、……携帯ネットっていうのかな、書き込んだその文章、新聞はずいぶん掲載しているけれど、僕からすれば大事なところを出していない。
たとえば弁当の実況中継。いま梅干しを食べましたとか、今コロッケですとか。彼は一人で弁当を食べながら、ずっとメールを売っていた。相手もいないのに。

藤井 そういうのいっぱいありますよ。僕が、ある大手メディアの記者から、それを最初に送ろうかっていわれ、プリントアウトしたら150ページもあるって言われて、そんなのいいから、受け取れないって言ったら、それを30枚ぐらいにしてきたんだけど、それでもほとんど使われてないやつばっかりでしたね。

森 メディアの視点が何となくずれている。まあずれているのはおまえだって言われればそれまでだけど。でもあれほど彼の孤独を伝える素材はないと思う。弁当を食べながら、こうやって片手で携帯電話を操作して、いま梅干を食べてますとか、味噌汁を飲みましたとかって打っている。このすさまじい寂寥というか、これを語らないことにはあの事件の本質は語れないと思うのだけど。それをネグってしまう。

藤井 紙面的にもそれはそうなってくるだろうし。

森 各紙同じようなことしか載せてないでしょう。

藤井 だからそうなんですよ。あそこがやったら、うちも打っとこうとぐらいの感じになる。そういう問題はたしかにある。だからぼくがそこでこぼれ落ちたものを落穂拾いのようになるべく社会に出そうというふうな役割を自分で任じているんですけどね。

森 そこはまったく同感です。というか、僕にはお金もないし、機動力もないし、マスコミの落穂を拾うしかないです。『A』なんてまさしく、オウムの落穂拾いの映画です。テレビ・メディアや新聞各社の記者が集まっているような状況はほとんどない。でも、多少はあの作品が評価されたならという前提で言うけれど、その落穂にとても重要なエッセンスがあるんです。ところが横並びの競争原理で、メディアは落穂をほとんど拾わない。

森達也・藤井誠二「死刑のある国ニッポン」

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