くらげのように

岸上の日記に、5月11日(新安保の強行採決と、それに対する激しい抗議行動のあった翌日)に「再読」と記されている『戦後世代の政治思想』の冒頭で、吉本隆明は次のように述べている。

「現在、私たちは、大きく膨らんだ国家独占社会で、クラゲのように浮きつ沈みつしながら生きている。足はアスファルトや土を踏みしめているが、思想はアトム化して目まぐるしい社会の現象をおうため、人間はついに社会現象そのもののようにしか存在できない。この新しい社会体験はわたしたちの周囲が、戦前よりはるかに厖大にふくれあがって視えるところからきている。そこでは、鋭い社会的な不安定感が、形にそう影のように飽和感とむすびついている。

しかし、あるものは、いや、戦前にくらべれば、十分に高度になった社会様式のなかで平和な日々を享受しているというかもしれない。これもまた、当然なことである。波立った海でも、水面下で、すでに穏やかな世界に到達できるのだ。わたしが危機とよぶとき、だれかが平和とよび、わたしが時代閉塞とよぶとき、だれかが希望のもてる未来とよぶとしても、異議をとなえることはできない。そこには、現実理解の共通点がないからである」

吉本が同時代への想像力をフル稼働させて描きだした、(新しい体験の突入した)このような社会に「くらげのように浮きつ沈みつしながら生きている」自分を、岸上は「疎外」と、「王将」は「吹けば飛ぶようなもの」に賭けてしまった曲と、「出世街道」は「どうせ・・・一ぽんどっこ」と、とらえた、とみることができるはずである。相互の間に「現実理解」というか、この場合は「了解」の共通点など、もちろんありえようもないが、であればこそ、それぞれの孤独は時代の(同じ)波を受けて、濃密な意味を帯びたのではないかと思う。

朝倉喬司「自殺の思想」

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