否定と肯定の逆転

「やばい」の反転のように、否定と肯定とが逆転し、かえって強調の意味をそえるようになった例は、それほどめずらしいことではない。日本語の空間において、歴史的には何度も、また幾重にもくりかえされた。

こうした副詞や形容詞による変容も、言葉のネットワークとしての特性と、たぶん深く関連しているように思う。意味がネットワーク上の「位置」のようなものであれば、その結びつきを逆にたどろうと、位置関係それ自体は変わらないともいえる。むしろ慣れすぎて新鮮味がなくなった意味のつながりを、逆にひねって活性化させ、力を回復させる、お決まりの技法だったのかもしれない。

そういえば、普通でなく優れている、とほめる形容詞「すばらしい」にも、どこかで方向性の逆転があったようだ。古語辞典を調べると、江戸時代の用法には「ひどい」「とんでもない」という、良くない意味で載っている。感嘆とともに使われる「すごい」も、ふりかえってよくみると否定と皇帝の意味を、共存させている。古くは寒さに始まって、ぞっとするほど恐ろしく感じる、もの淋しい状況をあらわした、という。おそらくは身体感覚を支点にした同様の「逆転」「飯店」のような転換を、いつに時代にであろうか、経験しているのである。

「全然」という副詞が、打ち消しで使い慣れた否定の役割から飛び出して、「全然うれしい」という強い肯定の用法を広く使われるようになった。その事実も、同じような変化として、われわれの記憶にあたらしい。

「全然うれしい」という表現は、もうずいぶんくりかえして聞いたので慣れたが、そう言われ始めたときは、なにか耳にひっかかって、笑い出したい気分をともなった。たぶん「祖手もうれしい」という孫たちの応答を聞いて、面白そうに高笑いしたに違いない江戸時代生まれの老人たちの当惑と、ほとんど同じ気分だったのではないだろうか。

「全然」も「とても」も、ある集団のなかでは普通に打ち消しの「ない」をともなって、始めて結びとして落ち着くことができる表現であった。その意味を強める勢いだけが、新しい肯定の結合においても流用されたわけだ。方向が180度異なることは、やがて気にもされなくなり、「とてもうれしい」の奇異さは、辞書をひいて初めて気づくほどの違和感になってしまった。

ことばの持つ意味の歴史的な厚みには、ふだんはあまり意識していない変化もまた、刻みこまれたままに忘れられている。

佐藤健二「ケータイ化する日本語」

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