「冤罪あるから死刑廃止を」ではない

藤井 死刑制度は残した方ほういいとぼくは思っていますが、いまの裁判員制度がはじまって死刑判決を出すことに対して裁判員がそれこそ精神を病むようなストレスを感じてしまうことがあるだろうし、激しい逡巡があるはずなのに、評議内容を人に言っちゃいかん、墓地まで持って行けみたいなことを強制されるわけでしょう。そういった状況に司法全体が耐えうるかどうか。この国が裁判員制度という「国民にひらかれた」司法のもとで死刑という制度を温存することができるかどうか、試金石になるかもしれない。
たとえば冤罪の問題。冤罪の問題に関して言うと、特に戦後の冤罪事件、袴田事件とか、あきらかに証拠についての合理的理由がないばかりか、捏造したとしか考えられない。最近でも鹿児島志布志町の事件もあれば、富山の痴漢事件もあるし。最近ぼくが冤罪被害者に取材した事件では、大阪の地方の裁判所の所長が襲撃された事件。ぼくは大阪のニュースで徹底的に冤罪を主張しましたが、全員無罪になりました。そういういいかげんな捜査。何がなんでも有罪にしたい検察。日本の警察、検察というのは、取り返しがつかない重大な人間の尊厳を奪い取る死刑をもつ資格がないような警察、検察だと思っているんです。
厳格な死刑制度をもつ国家であれば、厳正さは当たり前で、もちろん万引きだって冤罪があってはならないし――死刑廃止と冤罪の問題はダイレクトには結びつかないと思っていますが――冤罪をなくすための権力性を自ら放棄していくようなシステムをつくっていかないと、それぐらいの決意をもって、自白を強要するとか、証拠を隠すとか、あるいは捏造するなんていうことは絶対に「できない」という仕組みを自分たちに課さないと、死刑をもつ司法システムの人間として資格がないと思う。
取り調べ状況をビデオで記録するとか、監視員が見るということに反対するでしょう。反対する理由は、犯人を落とす瞬間は職人技だから見られたくないとか、そういうものです。一部だけを出せばいいじゃないかと。間違いがないと捜査員が胸をはるのであれば、「そんなことどうぞ100%やってください」くらいのことをいわないと死刑制度を担保することにならない。冤罪をゼロにすることができるかどうかという議論はあると思うんだけど、ゼロにする百何十パーセントの努力をしないで死刑温存というのは、それに関してぼくすごく疑問がある。

森 うん。自分が言ったかのような錯覚を起こすぐらいに同意します。確かに冤罪は死刑の本質ではない。でも誤報が絶対になくならない限り、考慮すべき重要なよう点です。

藤井 司法システムの一部の問題でもあり、本質の一部であると思います。

森 少し前、警察官僚出身の平沢勝衛議院議員とたまたま同席したとき、彼は胸を張って、日本の検察は優秀だから起訴した場合の有罪率は99.9%ですって言うんです。99.9%の有罪なんてありえないとの発想が見事にない。無謬性を本当に信じ込んでいる。でもこれは、多くの警察や検察の心情なのかもしれない。
つい数日前、新米検察官のドキュメンタリーを企画したディレクターが、彼らの飲み会に参加してきました。驚いたよって言うんです。何がって聞いたら「〇〇はこのあいだの裁判で死刑を取ったよ」とか、「いいなあ、俺は今年はまだ取っていない」とか、そんな会話ばかりだったって。死刑判決がまるでメーカーの売り上げ達成みたいな感覚になっている。だからやっぱり思います。そんな組織に死刑を求刑などされたくないって。

藤井 最大限の努力と改革を継続していかないと、死刑制度を存置する説得力がどんどん落ちていく・・・・・・。

森 冤罪だけが理由じゃない。何度も言うけれど、冤罪がなくても死刑は廃止すべきと思っています。

藤井 袴田事件なんて見ていると、30年ぐらいたって新しい証拠を出してきたりとか。こんな証拠も実はあったけれど、それは出してなかったなんてことが、出てきている。冤罪が秋からになった事件については、法律で定められた補償はあたりまえですが、そのときの法務官僚を含めて、警察・検察担当者は厳しい処分にすべきです。誰も責任をとらない。冤罪をつくりだしたという痛みを感じないシステムができあがってしまっています。

森 足利事件でも、検察や警察は謝罪はしたけれど、担当者は相変わらずお咎めなしです。免田栄さんが再審開始決定で釈放された時、捜査に当たった警察官は「俺たちは仕事でやった」と言い、検察官は「今さら非難するな」と言い、死刑判決を宣告した裁判官は、「ご苦労さん」とたずねてきた免田さんに言ったそうです。
たとえば医師は、医療ミスの責任を取らなければいけない。医師だけではない。仕事のミスの責任を取らなければならないことは当たり前です。でも警察や検察官は、人の命を左右して起きながら、しかもミスではなくて恣意的に人を殺そうとしておきながら、何の責任も取らなくてよい。これはやっぱりおかしい。罪を捏造したことで起訴された警察官や検察官など聞いたことがない。みんなせいぜい配置転換か、そのぐらいで終わっている。つまり組織防衛だからです。そう考えると恐ろしいと同時に、典型的な日本人の病理でもあると思います。

藤井 志布志事件のような選挙違反冤罪事件であれ、死刑事件の冤罪であれ、窃盗であれ、この国の操作権力は冤罪に対してほんとうに無自覚で、自分たち権力が加害者になっているという意識がいったいどこまであるのか。その上、裁判官もふくめて誰も責任を取らない構造ができあがっています。たとえば袴田事件の熊本裁判官以外のふたりの裁判官は意見を表明しないまま他界されてしまいましたね。そのあとになって熊本さんは語り始めた。まちがった裁判を出すかもしれないリスクが高い仕事だということは重々承知しているからこそ、法律上も身分を守られる特権の地位にあるわけだけど、口を閉ざしていいとは思わない。
捜査や証拠がいくらずさんでも、起訴されてしまうと有罪をひっくりかえすことはほとんど不可能という、推定有罪国、疑わしきは検察官の利益だという国です。袴田事件のような誰の目から見てもむちゃくちゃな証拠捏造も許容されてしまう。再審請求も新しい証拠がない限り難しい。冤罪の恐怖はそういう現状でも、死刑制度をなくしてしまうことには抵抗を感じ、存置を主張することにぼく自身、矛盾と葛藤を抱えています。どうしたらいいのか・・・・・・。もちろん冤罪の問題や、推定有罪の体質は死刑をなくすことで改善されるということではないと思いますが。

森 改善はされない。でも死刑が廃止されれば、最悪の事態は妨げます。足利事件は特別な事例ではない。同種のDNA官邸で死刑判決を受けた飯塚事件の久間さんは、すでに処刑されています。免田栄さんはインタビューで、何人もの冤罪の可能性がある死刑囚を獄中で見送ったとぼくに語ってくれました。彼らの多くは最後の瞬間まで、「自分は無罪だ」と主張し続けたそうです。表面化していないだけで同種の判決は、他にいくらでもあることに気づかないと。

藤井 すくなくとも、ぼく自身を含めた存置を指示することの国の人々は、いつでも自分を他人としてデッチあげられて、国家にくびり殺される可能性があるということを引き受けなくてはならないということだと思います。八割の国民はそういう自覚があるのだろうか。自分にはそういうことは起きないということはありえない。いつ犯罪に遭うかわからないのと同じように、犯人にデッチ上げられるリスクを思うべきです。そうでなくては、冤罪被害者に対しての想像力がなさすぎます。
足利事件のように、やはり国民すべてが牢獄に入れられるリスクも自覚しなければなりません。それらのことを社会はまるで自覚していない。そこは徹底して第三者というか、自分には関係ない、と思っている。冤罪被害者はまったく事件に関係ないところから逮捕されていることがどれほど知らされてるのでしょうか。あきらかな間違いをわかっていながら再審さえ開かない司法や、居直りを決め込む捜査陣に対しては、法的な対処もいまのままでいいとは思えません。冤罪とは「まちがって殺される」のではなく、捜査陣のメンツや点数稼ぎのために「あえて殺される」といっても言い過ぎではないと思います。
冤罪被害者、そして遺族への共感が余りにも社会にメディアにもないと思う。そして、人を殺した犯人は激しく憎悪するのに、冤罪によって関係ない人を殺した国家に対する憎悪はまったく感じられない。「犯罪被害者」報道に携わってきた者として強く思いますし、いままでの犯罪被害者以上に「棄民」化させられています。冤罪被害者も、もちろん「犯罪被害者等基本法」の適用と受けられるべきだし、ぼく自身もそこへの取材がなかったことを猛省しています。

森 そこはまったく一致します。繰りかえしになるけど、冤罪のシステムについて考えるとき、僕はいつも、アドルフ・アイヒマンのことを思い出します。ハンナ・アーレントが「凡庸な悪」と形容したアイヒマンは、ホロコースト計画の最高責任者の一人でありながら、裁判の際には何を聞かれても、「上からの指示の通りにやった」とか「命令に従っただけ」としか答えなかった。
おそらく冤罪を作り出した検察官や警察官たちも、もしも裁判で地震が被告人になったら、同じようなことを言うのでしょう。そしてこれは、アイヒマンと同じように、言い逃れやごまかしでは決してない。本音です。本音だからこそ、あんなことができる。日本人は集団への帰属力がとても強い。いいかえれば個が弱い。滅私奉公しやすい。とくに検察の場合、悪を駆逐するという社会正義の高揚が、ここに重なっている。
袴田事件とか名張毒ぶどう酒事件とか、資料や文献を読めばあきれます。知れば知るほど唖然とする。どうして検察官や警察はここまでできるのだろうと暗澹たる気持ちになる。押しつけると針が引っ込む特性の器具を作って肌に刺し、魔女だから痛がらないし、血も出ないとして、多くの女性たちを処刑した魔女狩りを思い出してしまう。
検察官がみな、冷血で卑劣な人たちとは思っていません。むしろ正義感は強い人たちのはずです。だからもし、この本を検察官の方が読んでいるのなら、自分の感覚を取り戻してほしいと僕は訴えたい。組織の論理も大切だけど、自分の感覚に優先させるべきことなのかどうか、本気で悩んでほしい。人を罪に陥れることが組織の離籍になるのなら、その組織はやはり間違っています。飲み会で死刑取ったとか取れなかったとか、そんな会話を最初から平気でしていなかったはずです。以前の自分を思い出してほしい。

藤井 ところで、森さんの『死刑』に木村洋さんの手紙が引用してあります。逆になぜ死刑が廃止できないのか、と木村さんは森さんにメッセージを書いておられますよね。彼は妻と幼子を殺されて、国家と死刑の関係性まで熟考して、こういう言い方をされています。話が戻ってしまうようですが、どうして日本では「死刑が廃止できない」のでしょうか?

森 多数派に行くという国民性、メディアによって煽られるフェイクな危機管理意識。そして多くの人が死刑を概念的にしか知らないこと。大きくこの三つだと思います。

森達也・藤井誠二「死刑のある国ニッポン」

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