世襲の統治②

◇権利や自由は安定した支配権力あってこそ保護される

王や貴族の特権を維持することはひとつの偏見です。世襲財産を維持することもある種の不平等で既得権益の擁護ですね。これは、たしかに偏見であって、合理的な考えではない。国教会制度を維持し、司祭制度や教会儀礼を維持することも偏見でしょう。しかしバークは、偏見こそが大事だといいます。合理主義や人間の理性のほうこそ頼りないものである。それよりも、どうしてかよくはわからないものの、歴史のなかでつづいてきた慣習やある程度の不平等などにこそ、うまくやっていく知恵が堆積されているはずだというのです。これが「偏見の擁護」ですね。

そして、「権利」というものも、歴史のなかで形成され、生活の中に慣習として埋めこまれているのだと彼は考えます。ですから、権利の概念は、決して抽象的なものではありえず、ある国の歴史や習慣とは切り離せないものなのです。

フランス革命の誤りは、抽象的で普遍的な「人間の権利」などというものを掲げた点にある。人間が生まれながらに自然に普遍的にもっている「人間の基本的権利」などというものは存在しない、と彼はいいます。存在するのは、抽象的な「人間の権利」ではなく、具体的な習慣や生活のなかで実践され保障されている「イギリス人の権利」や「フランス陣の権利」であって、これらは、イギリスの歴史伝統、フランスの歴史伝統と切り離すことができない。イギリスやフランスの文化や教育のなかで身につけていくものだということなのです。ふつう、「人権」観念の発見こそフランス革命の功績とされているのですが、バークは、その人権宣言が出された直後に「人権」観念を批判したのでした。

こうして、権利というものは抽象的な人間の権利として存在するものではなくて、まさに、イギリス人の権利として世襲の財産として受け継がれてくるものだということになる。これは自由の観念についてもいえるでしょう。自由も抽象的な自然の権利としてあらかじめ人間に与えられているのではなく、イギリスの歴史のなかで獲得され、定義され、そして保護され、ほとんど習慣となって受け継がれてきた。ですから、権利や自由を大事にするということは、これを世襲させることで、そのためにやはり世襲の統治が必要だということになります。継続するする支配権力があってはじめて、これらの権利や自由も保護されるとすれば、その体制を破壊してしまうと、権利も壊れてしまう。自由も実際に失われてしまう。自由と無秩序とはまったく違うわけです。

こういうバーグの立場に立てば、政治権力は人々の合理的契約によって正当化できるものではないのです。では、政治権力はどのように正当化できるのか、先に世襲の原理といいましたが、世襲が正当化されるということは、いいかえれば、支配がある程度の長期にわたって継続したということです。最初は「力」による支配も、長期に続くうちに人々の暗黙の同意を得るだろうということです。それをバーグは「時効の原理」ともいうのです。

これがバークのフランス革命に対する批判でした。このバークの議論からすると、イギリスの名誉革命はフランス革命とはまったく異なっていたことになります。イギリスの革命は、決して特権を破壊しなかった。特権を奪って、市民を支配者の地位につけることはしなかった。むろん、このバークの議論は、王や貴族など支配階級を擁護した支配のイデオロギーだといっていえなくはありません。実際、それがバークへの大方の評価となってきましたし、バークといえば、旧秩序の支配層を擁護した思想家だと受け止められてきました。

たしかに、バークが王権や貴族の特権、それと結びついた国教会の教会宗教を擁護したことは疑いありません。しかし問題は、どうして彼があえてそれを擁護したかです。しかも、それらを擁護することが、なぜ、フランス革命にたいしてイギリスの名誉革命体制を擁護することになったか、ということです。

ゆるやかな特権のなかにこそ、当地の知恵や社会の秩序をつくる秘訣があるというのがバークの考えでした。特権、伝統、偏見それに時効・・・これらは確かに合理的なものではないが、ここには先人の経験が蓄積されている。だとすれば、それが合理的ではない理由で、特権や伝統、偏見を破壊し、排除すべきではない。それを刊行したフランス革命は大混乱に陥るだろうというわけです。このバークの議論は、現代でも、まだ拝聴すべきものを含んでいると私には思われます。

(終わり)

佐伯啓思「西欧近代を問い直す 人間は進歩してきたのか」

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