ケータイメール

●日本におけるケータイメールの優勢

先行研究の多くが指摘するように、日本のケータイの遣われ方の特徴は「通話ではなくメールの理容が突出している点」にある。すなわち、日本の若者立ちは、写真や絵文字を含めたメッセージを、読み、書き、送るためにケータイを頻繁に利用している。

三宅和子の2000年の調査では、音声での通話が一日平均3.3回であるのに対して、メールは6.9回と通話の約二倍であった。2001年の調査になると、通話が平均1.72回に減ったのに、メールは9.98回と増え、比率でみると通話の約六倍近くとさらに高くなる。中村功の2002年調査でも、音声利用の通話が一日平均2.1回に対して、メールは9.4回となっているから、やはり同じくメール優位の傾向を示している。たぶん同じような優勢の実体は、他の測りかたや別な時点での調査でも確認されるだろう。東京大学大学院情報学環編の『日本人の情報行動2005』は、ケータイを持っている人が音声電話を利用する時間が「一日平均で10分」なのに対し、メールを読み書きする時間は「約28分」だったという集合結果を掲げている。また鈴木謙介は、「モバイルコンテンツ関連産業」の業界団体がまとめた『ケータイ白書2006』で、「携帯電話でよく利用する機能」に関して「通話」という回答が66.8%であったのに対し、「メール」と答えた人が100%であることに驚いている。台湾のメディア研究社ソフィア・ウーも、日本におけるメール優位を次のように指摘している。

***印象なんですが、台湾人なら電話をかけるところを、日本人はわざわざケータイメールでコミュニケーションしている感じがします。日本人はどこかで、直接対応するより、間接的なコミュニケーションに頼っているようで、そのこともまた、日本でケータイでのインターネット利用が盛んな理由でしょうね。***

ケータイからインターネットを利用する人の比率も、日本はとりわけ高い。韓国のメディア研究者鄭越泳との対談の中で、日本人の約34%がケータイからだけ、インターネットにアクセスしてメールの送受信やウェブの閲覧を行っているのに対して、韓国では約2パーセントにすぎないという、大きな差を指摘している。逆にコンピューターからだけインターネットにアクセスするという比率でも見ても、日本が約28%の少数派であるのに対し、韓国は約70%となっている、という。もちろん、この実態を利用者の選考や文化の違いに直接還元するのは早急で、料金を含めた利用環境の制度的な差異もあり、システムが整備されてきた歴史の違いも作用している。ケータイのメールもまた、インターネット利用のコミュニケーションの一形態である。日本では「iモード」などのインターネットサービスの開始(1999年)を前提に生まれ、「パケット通信料定額サービス」の登場(2003年)などの利便にとらえられて拡大してきた。

●画面への無言の熱中

ケータイメールの使用は、日本社会では2000年代に急激に浸透していった。

2000年代の初頭、ある精神分析学者は、駅前での若者たちのかなりが「親指でピコピコやりながら」画面をのぞき込み、まったく周りを気にしないかのようにたたずんでいる姿の異様さを嘆いた。しかし何年も経たないうちに、ある哲学者は、雑踏や満員電車のなかでの孤独な熱中に「もう誰も驚かなくなった」と書いている。それほどに多くの人が、電車のなかで座りながら、あるいは交差点で立ち止まり、時に歩きながらでも、小さな画面を見つめてメールを打っている。

***ホームや階段に座り込んで没頭している人もいれば、電車のなかでも、まったく周囲が目に入らないままケータイを見つめている。今までの携帯電話だけならまだ会話という感じなのだが、じっと画面を見つめている姿はさらに異様である。(小此木啓吾)***

***電車のなかで半数以上のひとが、だれに目を向けるでもなく、うつむいて携帯電話をチェックし、指を起用に動かしてメールを打つシーンに、もうだれも驚かなくなった。だれかと「つながっていたい」といたいくらいにおもうひとたちが、たがいに別の世界の住人であるかのように無関心で隣り合っている光景が、わたしたちの前には広がっている。(鷲田清一)***

まだケータイもウォークマンもなかった頃、二宮金次郎は薪を背負って運びながら読書をしたと、その勤勉さが一世紀前の国定教科書でも取り上げられ、全国の小学校の校庭に立つ無数の像にまでなった。しかし歩きながらもケータイをチェックし、メールを打っている現代人が、「勤勉」だと撮影されることは考えにくい。二宮金次郎の立身出世のための「読書」と、現代人のケータイでの「読み書き」とでは、同じく歩きながらの実践とはいいながら、どこか「勤勉」であるかのように見える行為の意味が、すでに十分にずれてしまっているからだ。そして多くの分析者たちはケータイでの熱中に、立身と結びついた「勤勉」の内面倫理ではなく、「即レス」(即座に変身すること)のもっきつを強迫観念のように抱え込んだ、つながりに関する不安を読み取っている。

すこし先を急ぎ過ぎた。

ケータイでの旺盛なメール利用は、いかなる意味で、これまで論じられてきたような「他者の希薄化」に関連しているのだろうか。

●ケータイメールの送り手と内容

ケータイメールの特徴として議論されていることを整理するところから始めよう。

三宅和子は、ケータイメールによるやりとりは、若者たち自身が抱いている対人関係に関するこだわりや心理的負担を、うまく受け止めて対処できる「適度に快いコミュニケーション空間」をつくり上げていると要約した。そこでいう適度な心地よさは、以下の二つの条件のバランスの上に成り立っている。

すなわち、第一は親密さの確保である。会話と同じような直接性に満ちたやりとりの親しさをいつでも維持しておきたい。その意味では、ケータイメールは「直接継続」のケータイ通話の延長である。他者との共同性の希求であるとも論じられよう。

第二は距離の確保であり、相手にあまり拘らないでよい間接性を可能にする。ここにおいて、通話との差異が「文字の文化」の特質を伴って現れる。すなわち「声」の共鳴の共同性を切断したところで成立する「文字」による読み書きの個体性である。

親密さと距離、直接性と間接性、共同性と個体性という、相反する欲求と異なる思考の均衡の上にケータイメールのコミュニケーション空間が成立している。これまでの分析でも共通して指摘されていることだが、「即レス」へのこだわりもまた、ときに矛盾するこのような方向性の均衡に根ざしている。

もうすこし具体的に見て見よう。

まずケータイメールは、主に既知の親しい友人の間でのコミュニケーションに頻繁に使われている。これまでの調査では、ケータイメールを送る相手としては「友人」や「家族や友人といった“親密な相手”」(鈴木謙介)がもっとも多く、2002年のある調査では「よく合う友人」「普段会う友人」を挙げた回答者が90.8%であった(中村功)。結局のところ、未知の他者とのコミュニケーションには、あまり熱心には使わていない。

しかしそこでの内容は、時間や場所を問わない、事務連絡や待ち合わせの便宜さることながら、近況の「同時中継」ともいうべき記述が多く、親密さをかもしだす「自足性」すなわち「コンサマトリー」な利用を特質としている、という。三宅和子の調査では「近況報告や日常のおしゃべりなど」(三宅和子)、田中ゆかりの調査では「その場の出来事や気持ちの伝達」(73.6%)、橋元良明の調査では「その時あった出来事や気持ちの伝達」(68.2%)(橋元良明ほか)が、もっとも高い比率を示しているのである。この場での心境を伝えたいという「日常の同期的共有」川浦康至、松田美佐)の欲求、あるいは「感情表出を伴った現況報告」(中村功)という骨格、さらに踏み込んであらわすなら「遠方とつながることで確証される臨場感」(浅羽道明)が指摘されている。

しかしながら、実況中継としての「問題」だけにこだわるなら、通話で直接接続したほうが手っとり早いはずである。にもかかわらず、メールの間接性が選ばれるのはなぜか。メールがつくり出している「距離」が、送り手の感情にふさわしいものと感じられているからである。

***形態の音声通話では、相手の時間を考えねばならないという、通話以前の配慮が必要だ。それに加え、通話内容、話の切り出し方、あいづちや間の取り方、会話の終わらせ方など、家電(家にある固定電話)同様、気を配らなければならないことが多い。とくに普段頻繁に会わない友人に対しては、会話に気を使う度合いが増える。その点メールなら、一つのまとまったメッセージを書いて送ると、そのまま返事を待つだけであり、同時進行的に相手とスムーズなやり取りに気を配る必要がない。(三宅和子)***

この選択には、対人関係の維持に関わる、それなりの躊躇も含まれている。たとえば、その場での出来事や自分の気持ちを伝達することに対する漠然とした遠慮であり、声を通じた関係が持ってしまう拘束力へのためらいでもある。相手にとって、自分の話は「些細で、どうでもよいこと」なのではないのか、あるいは「迷惑」だとは面と向かっては言わないにしても「相手の時間に割り込むほどのことではない」かもしれないという意識が、どこかで作用しているようにも見える。もちろん、もう一段、判断を親しさの方にひねって、些細で意味のないことだから、そして面と向かっては文句も言われないだろうから、送っておこうという意識もまたありうるだろう。

そうした意味づけが、「いつ読まれてもいい」メールの一方向性を選ばせる。

この本でここまで論じてきたように、回線上の声の持つ同時性の規範は、自分と相手とを同じ時間、同じ空間に拘束する。「やり取り」に背負わされた双方向性は、双方にとってハードルが高い。それゆえ当該の他者に「送っておく」だけでひとまず待機できる一方向性が、適度な心地よさとして選ばれているというわけである。

●親密さと距離の調整

もちろん、双方向性の留保あるいは引き延ばしと、非同期の自由だけでは、「適度な心地よさ」の十分条件にはならない。メールでの内容のやり取りをめぐる効果の感覚も、無視できない要素である。この形式でのコミュニケーションは、いかなる有効性をもち、どんな困難を有するものだと認識されているのだろうか。

本書ではすでに10章で、現実空間での対面的な第一次的関係と、電話空間での視覚が禁じられた第二次的関係での、発話の身ぶりの違いを考察した。そこで浮かびあがってきたのは、正反対の二極の感覚の共在であった。

すなわち電話でならば、「気恥ずかしくて面と向かって言いにくいことが言える」という、気安さや率直さのメリットが多くのひとから言及される。その半面で、「言いにくいことを言われた相手の本当の反応を確かめにくいから気になる」という心配や、こだわりゆえのデメリットも表明されていた。

同様の対照的で対立する二極は、ケータイメール利用の内側においても観察されている。ケータイメールの言葉の空間は、その点からも電話空間の拡張がある。中村功は、「携帯メールでは、会ったり電話では言いにくい、本当の気持ちが言える気がする」という回答が利用者に多い半面、「携帯メールでは顔が見えにくいだけに、相手の気持ちを傷つけないような気づかいをしている」と答えた利用者が多いことにも注意を促している(中村功)。そこでも両方の感覚が共存している。

●「言文一緒」と絵文字の配慮

研究者の多くが注目している、特異で独特の言語表現も、この「親密さ」と「距離」の調整と密接に関連している。

たとえばケータイメールは書かれた文章でありながら、日常会話でのふつうのしゃべりかたに基礎を置く、「言文一致」ならぬ「言文一緒」ともいうべき軽い文体が基本となっている。そして、書き手の意識もまた「書いている」ではなく「話している」に近い。(三宅和子)という。ケータイの「直接接続」で形成された親密な通話の延長である。

もちろん基本モードが「言文一緒」とはいえ、送る相手の地位や関係に応じた言い回しや記号の使い分けもないわけではない。各種記号の積極的利用もまた、「親密」と「距離」とを適切な快適さに管理しようとする配慮の実践である。具体的には、「(笑)」などのカッコ文字、機種独自の動く絵文字、記号を組み合わせた顔文字、ローマ字表記の記号、方言・幼児語・漫画的擬音・いい淀み・間違い字・カタカナの意図的使用等々、さまざまな技法が挙げられる。三宅和子が広義の「絵文字」について述べているように、その使用は特定の意味を伝えるためというより、状況を作り出すための手段である場合が多い。

***明確な気持ちを伝えるというよりも、感情の動きや気持ちの揺れがそこにあることを伝えるだけでいいような使われ方が、かなりある。また感情の伝達というよりは、雰囲気を和らげるために添えられているようなものも多い。***

つまりは、留保や距離の提示を通じて空気の管理の一環であり、バーチャルな対話の空間を調整している。いずれも直接性を感じさせる親密さと、間接性を保証する距離との、バランスのなかで機能している。

そのうえでなお、というか、そうであればこそメディアの選択はやはり重要である。電話の声を避け、メールの文字で話しかける。そのことだけは、明確に選びとられているからである。

この選択は、「無言」あるいは「無音」の環境を好み選ぶことであり、人類学でいう「沈黙交易」のような距離を保った交流を出現させる。そこでは二人称としての他者を含めて、他者に意思が音声として開かれることがなく、また共鳴の拘束力が作用しない。すなわち、他者の耳を徹底的に排除する「声からの自由」であり、声がともなう共同性や公共性の敬遠でもある。ケータイメールが生みだす「声をともなわないことば」の空間においては、他者の持つ制約力は明らかに遠ざけられており、その分だけ他者の存在感はさらに希薄になっている。そこでは電話やケータイでの「通話」以上に、第三者の位置を占める他者が関わりにくい。また、密室性をもって直接接続しているはずの相手との間にも、「文字」特有の距離と間接性とをもちこんでいる。

●「声の文化」の通念依存と間接的特質

いささか大がかりな回り道になるが、ここで「声」と「文字」の道具を媒体としての違いについて、すこしマクロに考えてみたい。

とりわけ、声と文字のそれぞれが組織する、「思考と表現」のスタイルの際に焦点をあてよう。それぞれのスタイル、すなわち文体を、主体との「距離」の問題として、さらには「見えない手」の性能の問題として、とらえ返すことで見えてくるつながりがあるだろう。おそらくその「主体との距離」は、「対象との距離」とも相関している。そして、そこでいう「主体」には、話し手・書き手だけでなく、聞き手・読み手といった他者も含まれる。だから距離の問題は、主体のポジショナリティ(立ち位置、あるいは立場性)の問題ともなる。

ウィルター・J・ヤングは『声の文化と文字の文化』のなかで、声の文化における「思考と表現」のスタイルの特徴を、次のような九点にまとめている。

すなわち、①従属説を有する複文のような構造・組織をもたない「累加的」な評言であり、②分析的な論理や体系的な概念でつなげられているというより、並列的に集合し全体として意味が構成されている点で「累積的」であり、③冗長で「多弁的」なくりかえしが多い。そのことで、話されたポイントが印象として効果的に伝わり、かえって耳にはわかりやすい結果をもたらすという側面もある。

また、そこでのレトリックや論理は、共有された「決まり文句」のくりかえしや耳慣れた「型」に頼るために、④保守的・伝統主義的で、⑤生活世界に密着した「たとえ」や「なぞらえ」を基本とする一方で、⑥たがいにおいて競い合い、相手をやりこめようとする「闘技的」なスタイルをも、ともなっている。

つまり、⑦客観的に対象との距離をとるというよりも「感情移入的・参加的」で、⑧「恒常性維持的」、すなわち、現在優勢になっている意味・意義を中心において議論や判断が出され、その均衡が作り出される傾向があり、⑨そこで使われる「概念」は抽象的に構築されたというよりは「状況依存的」である、と論じた。

つまり簡単にいえば、「声」による思考と表現の文体とは、声がことばとして現象する場に依存しており、そこからの十分な「距離」をとったものではない。つまり状況の文脈あるいはコンテクストにしばられている。それは第一に、論理的な構造をもって主張の力が組み立てられているというより、付け加えられて、くりかえされることでの説得力をもつ。第二に、生活世界と不可分で現在の状況に依存した参加的、感情移入的に、共鳴的な論理であることによって、他者を効果的にまきこみ、第三に「闘技的」といわれるような、やりとりのなかでその他者との競い合いや交渉の双方向性を抱え込んで成立する。

●「文字の文化」の分析性と状況からの超越

逆にいうと、「文字」の思考と表現は、状況と明確に切り離され、対象とのあいだに自覚的な距離を有する設定に特徴がある。

それゆえに、声の段階とはまったく異なる「ことば」の抽象性や超越性を、自らの内に抱え込まざるをえなくなった。この特徴は、印刷革命の活字段階になって、むしろその本質は明確になったのである。文字の読み書きの実践そのものが、主体と主体とのあいだに、あるいは対象と主体の認識とのあいだに、バーチャルな「距離」を生みだす。印刷革命が「思考と表現」に及ぼした作用を詳細に分析したアイゼンステインは、そこに「文字の文化」の蓄積に固有の積極的で主体的な力を論じている。

あらためて整理しよう。文字の文化における「思考と表現」の特徴とは何か。

第一に、分析的な論理である。文字によるコミュニケーションは、並列的で反復的な言葉の使用と異なる、機能によって結合する「論理」を、新たな説得力として発展させた。

すなわち、概念の定義や意味の整理、カテゴリーの論理的縫合関係、主によるもの/従であるものの区別、因果関係などなどの構造化・体系化が、書かれたものの蓄積のうえでなされる。そして、その拡がりや厚みを組織的に見渡せるような空間性を、言葉のなかに生みだすのである。まさに正確な意味での「論じること」あるいは「分析すること」が生まれた。文やカテゴリーの形で表わされた主張や観念を、それを構成している意味の要素に分解して、その要素と要素とを結びつけている関係を明らかにする。そのことで、より明確な対象を理解するような作者が、そこではじめて可能になる。

それは第二に、身体の位置する現在の生活世界への依存から距離をとることにおいて、文字による思考と表現が成り立ったことを意味する。すなわち、それは生活世界の「恒常性」や「状況依存性」からの脱却であり、「感情移入的」で「参加的」な拘束力の切断であり、「闘技的」なコミュニケーション空間からの逃避、あるいは平和を求めての調節である。

この大きな転換において、文字と印刷が果たした役割は大きい。文字の技術の身体化は、言葉の広範な記録や蓄積を可能にし、印刷が生みだした文字の複製は社会的な共有に、新しい水準と位相をもたらした。声としてのことばのもつ共同性から一定の「距離」をとって関わる「もうひとつの場」を可能にし、ことばという不思議な道具のなかの、新しい批判力と説得力の誕生を可能にしたからである。

オングは、「文字の文化」を生みだした、ある種の切断・喪失と復活・再生のダイナミズムについて、次のような含蓄ある歴史認識を掲げる。

***プラトンの認識論の全体は、プラトン自身が意識していなかったとしても、実際においては、かつての、声としてのことばにもとづく生活世界の計画的な拒絶だった。つまり、動きにみちていて、あたたかな、人間どうしのやりとりがある。そうした声の文化の生活世界の拒絶だったのである(そういう世界の代表者である詩人を、プラトンは彼の「国家」から追放した)。[中略]逆説的なのか、こうして死んだテクスト、つまり、生きいきとした人間的な生活世界からぬきとられ、硬直して視覚的な凝固物となったテクストが、耐久性を手に入れ、その結果、潜在的には無数の生きた読者の手で、数かぎりない生きたコンテクストのなかによみがえるための力を手に入れるということである。***

●共有された間違いをただす批判力

つまり第三に「視覚的な凝固物」である「文字の文化」は、声の対面性に基づく共有空間とは異なる、まさにバーチャルであると同時に発揮された物質性をもあわせもつ、広大な「ことば」の公共空間をつくり出した。

印刷文字すなわち活字が付け加えた標準化・記号化により脱身体性と、複製技術が生みだした時空を超えたテクストの同一性は、読者の公共空間ともいうべき場を起ち上げる。「古典」「教養」「活字文化」等々のことばで、人びとはこの共有地の存在と、それが果たす重要な役割を指示してきた。そこは世代や地域を越えた視覚的な文字による新たな拡がりと、図書館や文書館のような蓄積の奥行きをもつコミュニケーション空間であった。

なるほど、印刷は多数の複製を、正確に同一なるものとして生み出す。そのことを通じて、情報の共有空間を産出した。しかし、そこで生まれたのは「事実」や「いいかげん」なことも、正確に複製され文字に定着して、誰もが参照できる形に固定されて普及した。であればこそ、この複製情報の空間のなかから、情報の相互の矛盾を批判し、その正しさの度合いを評価し、信頼できるかどうかを審査し、その結果を自らの主張すなわち「論」として、再び文字化する書き手としての読者=主体が生まれてきた。

誤りや間違いまでも正確に紙に複製される。自分だけではなく他者もまた、疑問をもった場合にはそこにおいて参照し確認できるものとして残る。そうした印刷本(刊本)の確かな厚みが、読者という主体の批判力を与え、より正しい解釈を戦わせうる論述の「公共件」を立ち上げたのである。

文字の学習と日常的使用は、口頭で話され「記憶」されるだけの集積では達し得ない、世代を超えた巨大なことばの蓄積を、たとえ潜在的で断片的なままの形態であれ、「記録」として社会に刻みこむ、その網羅的な収集と発掘とは、やがて「国語辞典」のような編集の形式において、ことばそれ自体のネットワーク性を視覚的に一覧することができる便利を成立させる。

日本の平安時代から明治初頭まで、やりとりの実践の形式にそって模範文例が編纂された「手紙」の書き方(「往来物」という)が、初等の識字教育の教科書の中心を占め、やがて事典的な要素をも備えていったのは、たぶん偶然ではない。

ことばの豊かさと意味の厚みとは、文学の媒介と印刷の複製技術とによって、「行為遂行的」に、すなわち、文字の使用と印刷の実践を通じて、組織的かつ分析的に再構成されながら、共有されることになったのである。本書の冒頭に記したとおり、人類史を見渡してみると、哲学も歴史も文学も社会科学も、まさにこの新たな複製技術の公共空間において、種が撒かれ、芽吹き、多くの主体によって育てられ、収穫された「ことば」の果実である。

佐藤健二「ケータイ化する日本語」

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