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2018年中露国境旅行(3)

 今回乗った綏芬河行き夜行列車は硬臥という二等寝台車利用です。本当は軟臥という一等寝台車にしたかったのですが、とれませんでした。余裕をもって旅行代理店に手配をお願いしたはずなのですが、やはり夏も中国全国人民大移動の時期のようです。三十年前は軟臥の方が取りやすかったのですが、すっかり時代は変わりました。改革開放万歳。
 そうはいっても深夜手前に乗って早朝に下車するだけなので、横になることができれば十分といえば十分です。それにエアコンが冷蔵庫なみに効いているので快適です。硬臥は三段寝台ですが、上中段でもそれほど狭いわけではありません。もっとも北朝鮮の金正恩委員長をおもてなしするにはちょっと狭すぎるかもしれませんが。
 朝になり綏芬河に到着しました。綏芬河に来るのは8年ぶりです。8年前は今回とは逆コースで、乗客は私一人という謎の国際列車に乗ってウラジオストクから綏芬河を経由してハルビンに行きました。今回はバスでロシアへ向かいますが、その前に今日は綏芬河の偵察、ではなくて視察を行います。

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 綏芬河駅と同じ敷地内にバスターミナルもありましたので、そこへ足を延ばします。中に入るとこのバスターミナルは国内バスと国際バス両方のターミナルのようです。「○球の歩き方」によると、もっと市内中心部に近い別のところに国際バスのターミナルがあるとの情報があります。事前に仕入れてきたネット情報でも同じです。いきなりトラップか?
 ここは綏芬河の中心部から結構離れたところです。周囲にはほぼ何もありません。今からホテルへ行ってもおそらくまだチェックインはできないし、そしてまたここへ戻るのも面倒くさいです。それならばいっそのことこのまま今回の旅行の目的地のひとつ、東寧要塞に行くことにします。その時はナイス判断!と思っていましたが、後から思うとちょっと無茶しよるナーと思います。夜行列車で眠りの浅い一晩を過ごしたので、思考回路が若干ショートをおこしていたのかもしれません。

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 綏芬河から乗ったワゴンタイプのミニバスに乗って東寧まで移動します。やはり夜行列車の寝台だと睡眠が浅かったのか、途中で失神していました。
 やがて車は東寧市内に入り、街中のよくわからないところで降ろされました。少なくともバスターミナルではありません。地元民にとってはここで降りた方が何かと便利なのかもしれませんが、私は困惑するのみです。訳が分からないので、とりあえず街中を徘徊し始めましたが、割とすぐにバスターミナルらしき建物を見つけることができました。なぜここに寄らなかったのだろう。
 ここも綏芬河のバスターミナルと同じようにロシア行きの国際バスが出ているようです。それも結構本数があるようで、多くの中国人が屯しています。ただし情報によるとこのバスが通る東寧国境は第三国人は通過できないとのことです。
 ここからさらに東寧要塞に行くのですが、そこへ行くバスが見当たりません。もしかしたら出発地はここではないのかもしれませんが、確かめるすべもありません。なので、適当にタクシーを捕まえて要塞まで行ってもらうことにします。

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 東寧の街を出発したタクシーは、やたらだだっ広いまっすぐな道を進んでいきます。途中で道を右折しますが、ここをそのまままっすぐに進むとロシアとの国境ポイントに行きつくようです。
 いくつか小さな村を通り抜けると要塞に到着です。結構にぎやかです。入場料は無料です。施設の入口付近は、芝生が生えた庭に戦車や飛行機に加え、本物かどうかはわかりませんが日本関連の石碑などが置かれています。ここも概ね反日教育施設のようです。こういうきな臭いものを待っていました。ここを通り抜けると右側に建物があり、中は展示施設です。ここは軽く流し、さらに山に向かって進むと要塞の入り口です。入口なんですが、なぜか地下要塞への通路の入り口に「立ち入り禁止」と思われる看板が無慈悲にも立ちはだかっています。ほかにどこか別の入り口がないか探してみますが、そのようなものはなさそうです。あのー、中国人民の皆さんは、ここへ何をしに来てるんでしょうか。楽しいですかぁ。私にとっては「金返せ」級の事態です、実際には払ってはいませんが。せっかく日本人パルチザンがはるばる満洲帝国まで反日教育を受けにやってきたのに。ハルビンの安重根記念館と続いて2回目の大きな空振りです。
 入口に帰ると東寧の街を結ぶバスが停まっていました。やはりタクシーを使わなくてもここへ行く手段はあったのです。そして帰路はこのバスと何回もすれ違いました。なんだかとどめをさされた気分です。

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 黒龍江省の東寧という辺境まで苦難の行軍の末にたどり着いたにもかかわらず、またしても反日教育を受けることができず、傷心の日本人パルチザンは断腸の思いで綏芬河へ引き返します。といっても道中はずっと眠っていましたが。
 綏芬河のバスターミナルに戻り、そこから市内までは市バスで移動します。綏芬河へは8年前にも行ったことがあるので、バスが今どこを走っているのかは概ねわかります。そして「中心広場」というところでバスを降り、広場に面している予約済みのホテルにチェックインします。
 今日はまだ食事をしていません。どこかで適当に昼食をとりに出かけます。その途中、ホテルのすぐ近くに一風変わった建物があるのでそこに行きます。「地球の歩き方」では「人頭楼」と紹介されている旧日本領事館の建物です。ロシア人により建てられたこの建物は、文字どおり「人頭」が特徴的なのですが、実際に見てみると顔がちょっとシュールでヘンです。当時はこれがモダンでナウでイケていたのでしょうか。なかなか受け入れ難いセンスです。あんまり眺めていると夢に出てきそうなので、見物はほどほどにしておきます。

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 昼食は冷麺。中国の冷麺ですが、麺をハサミで切るという手法はないようで、麺は歯で食いちぎるのですが、麺が結構長いのと丈夫なので、食べるのに疲れます。おまけに箸で麺をつまむと麺がつるつると滑るので食べにくいです。それでも今日は暑かったので冷麺を選びました。
 晩飯は炒面、焼きそばです。注文したら野菜系のおかずを一皿サービスしてくれました。ビールを注文したら生ビールがでてきました。本当はビールはミッションが完了する明日に飲むのが慣例なのですが、飲みました。そのあと下痢しました。明日は長時間の移動となりますので、ちょっとよろしくないです。

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 綏芬河の中心広場です。一応ここが街の中心部のようです。中露商業貿易街地区に隣接していて、ロシア語の看板であふれています。とてもここが辺境の田舎町とは思えない賑やかさです。8年前にも思ったことですが、極東ロシアはモスクワからははるかかなた、地の果てです。ウラジオストクはロシアからすると極東にある一地方都市です。一方綏芬河も北京から見ても、黒龍江省都ハルビンから見ても辺境。なのにまるで人が余っているかのように多くの人たちであふれています。実際余っているんですが。このまま放っておいたら極東ロシアは中国人によってなし崩し的に「レコンキスタ」されてしまうかもしれないという危機感を覚えても不思議はありません。そうでなくてもすでに中国にとって極東ロシアは本音では「歴史的にも中国の一部」と思われているでしょう。

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